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<文化交流資料>
ゲーテ文献学頌―ゲルマニスティクに関する反時代的考察―
上智大学名誉教授 木村直司
ドイツ連邦共和国首相ヘルムート・コール博士記念講演
−統合ドイツとヨーロッパ−
デイートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ講演会
−ライヒャルトとゲーテ−
新中央図書館の象徴的意義
ケルン大司教 ヨゼフ・ヘフナ−枢機卿
ゲーテ文献学頌―ゲルマニスティクに関する反時代的考察
木村 直司 deutsch
(2003年9月27日講演会)
私は二〇〇〇年三月に上智大学を定年退職致しましてから、北京、上海、ウィーンをへて同年十月から、ドナウ河畔の古都レーゲンスブルクに住んでおります。ここで私は、一九九七年夏学期にドイツ文学科の客員教授として、ゲーテの芸術論に関するゼミをやったことがあります。そして二回目の滞在の翌年四月からレーゲンスブルク大学で日本語・日本文化を教えております。従いまして、私は現在どちらかと言えばにわか仕込みの
Japanologe でありまして、Germanist としての専門的な研究論文はほとんど書いておりませんでした。過去数年間の研究成果はむしろ、ゼミやシンポジウムで発表した日本文化に関する論文集
?Der 'Ferne Westen' Japan. Zehn Kapitel
uber Mythos und Geschichte Japans" という本になって、この秋のフランクフルト書籍市までにウィーンのINSTという文化科学研究所から刊行されることになっております。日本はヨーロッパから見ますと東の東、極東
(Der ferne Osten)に位置しています。しかし、明治維新以後の近代日本は、太平洋をへだててアメリカの西に位置する
Der ferne Westenだ、というのが根本的な趣旨であります。
ところが、去る六月一日にはからずも DAAD
のグリム賞というものを頂くことになり、東京での受賞式にはドイツ語・ドイツ文学に関する学術講演をドイツ語でやるように言われました。"Lob der Goethephilologie. Unzeitgemaesse
Betrachtungen ueber die Germanistik" と題するその講演の全文はいま印刷中ですが、残念ながら今日には間に合いませんでした。もし一部でもボンの
DAAD 本部から送ってもらえたら、私としましてはすぐコピーして皆さんにお配りし、日本語で補足説明するような形でその内容をご紹介したいと思っておりました。下手なドイツ語で論文を書いておりますと、意を尽くさぬことばかりで、母国語というものがどんなにいいものか身にしみて分かります。しかし率直に言いますと、私にとって、学術講演は原稿さえできていれば、日本語よりドイツ語のほうがどちらかといえば楽なのです。なぜかと申しますと、ドイツ語の講演原稿は理解できるように朗読しさえすればよいのですが、日本語の場合、講演原稿を棒読みしただけでは様にならないからです。それにドイツ語を話していると、私は半分ドイツ人で、精神的・感覚的にもはや純粋な日本人ではありませんので、自分で自分のドイツ語を日本語に翻訳するのは非常な違和感を感じます。そのような訳で、これからお話しすることはドイツ語版とは必ずしも同じではないことを、お断わりしておきます。時間もきょうは倍もあります。
ところで、「ゲーテ文献学頌」("Lob
der Goethephilologie")という主題は、一方でイギリスのヒューマニスト、トマス・モーアに捧げられたエラスムスの風刺的・諧謔的な作品
"Das Lob der Dummheit"(『痴愚神礼賛』)、他方でポオル・ヴァレリイが一九三二年ゲーテ没後百周年にソルボンヌ大学で行なった有名な記念講演『ゲーテ頌』を暗示しております。ゲーテはここで何よりも賢者、そして普遍的人間として賛美されております。このような間接的引用の仕方は最新の方法論で
Intertextualitat と呼ばれており、歴史上の出来事を銘記していて、それをほのめかしながら現在の事柄を再評価あるいは再検討するという意味で、いわゆる記憶のディスクールという、過去の克服をめぐる現代焦眉の議論とも関連しております。ドイツでは過去二,三十年間、文学研究理論が続出し、こちらがやっと一つの方法論を学んだ頃にはもうすたれてしまっていて、次の新しいのが提唱されているような状態でした。空理空論とは言わないまでも、理論のための理論が多すぎて、私にはとてもついていけませんでした。ですから、ゲーテ文献学などという古くさい学問をことさら賛美するのは、必ずしも私が
Germanistとして時代錯誤の保守主義者だから、ということにはなりません。あえて言えば、それはある程度まで私の正当防衛の試みであります。
次に「ゲルマニスティクに関する反時代的考察」という副題は、いうまでもなくニーチェの著書の表題
"Unzeitgemase Betrachtungen" から取られておりますが、ニーチェが普仏戦争以後の教養俗物的時代精神を批判しているのに対し、私は一見、現代のゲルマニスティク研究の主流となりつつある、いわゆる
Kulturwissenschaft(en) に異をとなえるいるように見えるかもしれません。しかし私は、伝統的にフィロロジーないし文献学であるドイツのゲルマニスティクが自信を喪失し、アメリカの
Cultural Studies の真似をして文化科学になることに反対しているだけであって、外国人、したがってまた日本人によるゲルマニスティク研究、いわゆるAuslandsgermanistik
は江戸時代の蘭学のように、ドイツ語を使ってドイツ語学・文学だけでなく、欧米文化全般、そればかりではなく世界文化全体を研究すべきであると主張しているのであります。Native
Speakerではない日本人、少なくとも私には言語的限界があり、ドイツ人のように中世の写本や近代以降の詩人や作家のオリジナル原稿を用いて研究することは到底できませんし、またその必要もありません。実際、私が
Japanologe として書いた日本文化論、とりわけ『古事記』を中心とする日本の神話とナショナリズムに関するドイツ語の論文は、専門外とはいえ、いちおう文化科学的な基礎研究であります。
しかしながら私にとりまして、実証主義としてとかく過小評価されがちなゲーテ文献学の意義をことさら称揚するのは、十分な言語学的基盤や体系的な文学史的知識なしに、文化科学の名において個人的興味に近い種々雑多なテーマを研究しようとしているように見受けられる最近の風潮に対して、古い世代の教師として批判的だからであります。逆にまた、すでに十九世紀後半以来、多くのゲーテ愛好者、ましてゲーテ学者や哲学者までがエッカーマンの『ゲーテとの対話』をあたかもゲーテ自身のテクストであるかのように引用するのは、文献学的にほんらい認められないことであります。それは最初一八三六年、すなわちゲーテの死後四年たってから二巻の書物としてライプツィヒのブロックハウス書店から出版されました。しかし著者と出版社のあいだで印税をめぐりトラブルが起こったため、ワイマールに滞在していたフランス人フレデリック・ソレーの原稿を援用した第三部は、一八四八年にマークデブルクのハインリヒスホーフェン書店から出版されました。いま広く読まれている全三部の一冊本がふたたびブロックハウス書店から刊行されたのは、さらに十三年後でした。いわゆる三月革命前後、ゲーテの名声はベルネやハイネの誹謗中傷により地に落ちていましたから、この本は多分にゲーテの宗教観や政治的立場を弁護する性格をもっていたのです。もちろん、エッカーマンの信憑性に関しましては早くから文献学的な検討が加えられておりまして、数多くの事実の誤りや筆記者の好みによる脚色などが指摘された結果、現在ではゲーテの言葉の忠実な記録というよりも、むしろエッカーマンの描き出した調和的なゲーテ像とみなされております。
周知のように『論語』も孔子自身の著作ではなく、弟子たちの書き記した孔子唯一の語録でありますが、エッカーマンの『ゲーテとの対話』が世界中でほとんどゲーテの作品そのものよりも愛読されるようになったのは、他のあらゆることに関してきわめて批判的なニーチェの非文献学的なエッカーマン賛美のせいであります。彼は「遍歴者とその影」その他の中でエッカーマンを「ドイツ語で書かれた最良の書」と称賛し、それがたびたび『ゲーテとの対話』の原典出版あるいは翻訳の際に引用され、結果的にもっとも効果的な宣伝文として濫用されてしまったからであります。『ゲーテとの対話』を金科玉条にしてゲーテの宗教観や政治的態度を解釈するのは、はっきり言いまして、たいていゲーテ研究のディレッタントであります。ですから、私はやむを得ない場合を除いてエッカーマン、ましてビーダーマン編の『ゲーテ対話録』を引用するのを好みません。引用するのは、ゲーテ自身の論文や書簡・日記によって彼の思想であることが確認できる場合か、さもありなん、と前後の状況から納得できるか、ほかに資料がなくて非常に参考になる事柄が記述されている場合に限ります。
たとえば、グリム賞に対する感謝の辞の中で、私は一八三〇年三月十四日付のナポレオン戦争の際の政治詩に関する対話から次の個所を引用しました。「憎しみなしに、私にどうして憎しみの詩が書けただろうか。内緒の話だけれど、フランス人がいなくなったとき神におおいに感謝したけれど、私はフランス人を憎んだことはなかった。文化と野蛮だけが関心事の私がどうして、地球上でもっとも進んだ文明国の一つで、しかも私が自分の教養のかくも多くを負っている国を憎むことができただろうか。」なぜ引用したかと言いますと、私もゲルマニストとして自分の教育・教養の大部分をドイツに負っているからであります。私は札幌で過ごした幼少年時代にすでにフランシスコ会のドイツ人修道女たちと神父をよく知っていましたし、上智大学における学生時代の恩師たちの多くはイエズス会のドイツ人神父あるいはドイツ人講師たちでありました。ホフマン時代はすでに終わっていましたが、その薫陶をうけた日本人の恩師戸川敬一先生の亡くなられたいま、私も学生時代を入れますと、上智の歴史をほぼ半世紀近く経験した数少ない教員の一人ということになります。
一九五九年夏、エアハルト奨学資金というDAADの奨学金でミュンヘン大学へ留学してからは、その数年まえベルリンから招聘されてきたヘルマン・クーニッシュ教授から、私は多大の学恩を受けました。同教授はグリム兄弟の始めた『ドイツ語辞典』の編纂所に第二次世界大戦が終わるまで十年以上勤務した語学者であると同時に、ドイツ文学近代部門の正教授として文学史家でもありました。当時はまだ、近代文学部門で博士号を取ると教授資格は中世部門で取らなければならない、またその逆も同じという時代でありまして、その際、博士論文は伝統的なマイスター制度の考え方に従って、徒弟が職人になるときに作成するGesellenarbeit、教授資格請求論文は学問的同業者組合に親方として受け入れてもらうための
Meisterstuck とみなされておりました。私は一九六三年春、この博士論文を提出することにより比較的早く徒弟時代をおえて帰国し、その後すぐ母校の専任講師になることができました。この
Dissertation は、"Goethes Wortgebrauch
zur Dichtungstheorie im Briefwechsel mit
Schiller und in den Gesprachen mit Eckermann"
として、一九六五年にミュンヘンのフーバー書店から出版されました。私が若い講師・助教授として独文科で教鞭をとっていたのは、職人時代ということになります。
ただし私の遍歴時代が始まったのは、一九八二年、ゲーテ没後百五十年の機会にシーボルト賞というフンボルト財団の学術奨励賞をいただく幸運に恵まれ、南米以外の全世界の学会やシンポジウムに参加するようになってからであります。日本やアメリカの大学制度にドイツの教授資格請求論文に相当するものはありません。しかし私は、この
Habilitationsschrift のつもりで『ゲーテ研究』全三巻を出版し、レーゲンスブルク大学で客員教授を勤めた年に
"Jenseits von Weimar. Goethes Weg zum
Fernen Osten" というドイツ語の論文集をまとめました。このようにドイツの大学では伝統的に、学問的なマイスターになるため、博士論文と教授資格請求論文という最低二冊の本を書くことが義務づけられていました。これは現在でも基本的に変わっておりません。しかしながらドイツの大学は、最近とくにアメリカの大学制度に合致するような改革を迫られておりまして、文科系では反対論が根強いとはいえ、自然科学のほうではすでにHabilitationsschriftを廃止する方向にあるようであります。
学問的徒弟時代の私は、いくつかのゼミナール論文を提出したあとクーニッシュ教授から、ドクター論文のために「シラーとの往復書簡およびエッカーマンとの対話におけるゲーテの文芸用語の語法」という研究課題を与えられました。なにしろ、指導教授は学問上の親方ですから、そのもとで学ぶ徒弟の立場の学生には、日本の大学のように勝手に研究テーマを決める資格はありません。学生はむしろ何よりもまず指導教授の研究方法を学び取らなければなりません。そこで私は、ゲーテの文芸理論を研究するまえに、クーニッシュ教授の博士論文である「十四、十五世紀のドイツ神秘主義の言語における
'Grund'の語法」という論文を読み始めました。この研究の目的は、Grund
というドイツ語には、英語の ground(地面)の意味のほか
reason(理由)の意味があるのはなぜか、その意義変遷の歴史的プロセスをドイツ神秘主義の豊富なテクストを駆使して実証的に解明する、ということでした。当時の私には、もともとの地面の意味が、神と人間の神秘的合一
unio mystica の行なわれる場としての魂の根底の意味に転用され、さらにその合一の原因が神の恩寵であることから、理由の意味が生じてきた、という文献学的説明は非常に感銘深いものでありました。ゲーテ研究を中世のドイツ神秘主義から始めたという意味で、私は今でも自分が戦前のベルリン学派に属していると思っております。日本のゲルマニスティクでは、故相良守峯先生がその代表的な学者であります。ドイツでも日本でも、このような歴史的・実証主義的学派は、一九六八年の大学紛争の結果、消滅してしまいました。
ドクターアルバイトに際して私が方法論上の直接のお手本としたのは、グリムの『ドイツ語辞典』の
"Geist"という、ルドルフ・ヒルデブラントの有名な大項目でありました。当時は、哲学においてある概念を厳密に分析研究するように、ゲルマニスティクにおいては審美的な作品解釈とならんで、特定のことばをある詩人・作家あるいは作品について、どのような意味で、どのように使われているのかを徹底的に調べる方法が好んで用いられておりました。グリムの『ドイツ語辞典』全三十二巻は、一八五四年に第一巻が出版されたあと、ヴィルヘルムが一八五九年に死去し、ヤーコプも見出し語
"Frucht" 執筆中の一八六三年に亡くなりましたが、国家的事業として幾多のドイツ語学者たちによって連綿と続けれられ、一九六二年に遂に完成されました。私は留学中その第一報をミュンヘン大学の独文研究室で聞きました。そして百年に及ぶドイツ文献学の息の長い仕事ぶりに感心すると同時に、すぐに改訂作業が始まると聞いて、驚きあきれました。実は、東西ドイツが一九四九年、ゲーテ生誕二百年の年に分裂したあと間もなく、古典語学者ヴォルフガング・シャーデヴァルトの提唱で『ゲーテ用語辞典』というものが東ベルリンで企画され、ライプツィヒ、ハンブルク、ゲッティンゲンで作業が開始されたものの、ドイツ再統一までに分厚い最初の数巻が出ただけであります。完成までにまた五十年はかかるに違いありません。これが良かれ悪しかれドイツ文献学の伝統なのであります。
しかし学問史的に見ますと、現在のドイツ語学・文学研究部門ゲルマニスティクは、ゲーテ文献学に始まり、ゲーテ文献学はまたギリシア語・ラテン語の古典文献学とドイツ語中世写本の本文批判にその基礎をおいております。ですから私にとりまして、ゲーテ研究を含むドイツ文献学
(deutsche Philologie)は、グリムの『ドイツ語辞典』にもそう書いてありますように、哲学・歴史学とともに精神科学の最重要部門として疑いの余地のないものでありました。それらは、戦前のベルリン大学を模範にしていた日本の旧制帝国大学でも、哲・史・文と呼び慣わされていました。ただ日本では仏教学をはじめ一般宗教学が文学部の一講座にすぎないのに対し、ドイツでは多数の教授を擁する神学部というものが厳然として存在しておりますので、私は神学と精神科学の関係に注目せざるを得ませんでした。神学が精神科学に含まれないとすれば、キリスト教を除外して、どうしてヨーロッパ文化を研究したことになるのか、私には理解できなかったのであります。カトリック神学を副専攻として学んだ限り私には、聖書解釈は文献学ないし言語学としてのフィロロジーそのもの、教会史あるいは教義史は歴史記述部門、そして「久遠の哲学」(philosophia
perennis) と呼ばれていたキリスト教哲学は、いわゆるキリスト教的西欧の哲学、エラスムス以来のキリスト教的ヒューマニズムに他ならないと思われました。ゲーテも自叙伝『詩と真実』に書いておりますように、少なくともミヒャエリス以来の旧約聖書本文批判を文献学の問題として把握しておりました。
ドイツ中世から神学をへてゲーテに至る精神史的橋渡しは、私個人にとりまして、ヤーコプ・グリムの『ドイツ語辞典』への序文によってなされました。まずルートヴィヒ・リヒターの口絵に新約聖書ヨハネ伝の冒頭の句「初めにことばありき」(im
anfang war das wort) が明記されておりました。理性と言葉を意味するギリシア語のロゴスが、ゲーテの『ファウスト』第一部の最初の場面で、「意味」(der
Sinn) 、「力」(die Kraft)、「行為」(die Tat)
と 世俗的な意味に解釈しなおされていくのは、ご承知のとおりであります。この解釈のドイツ近代精神史および政治史に及ぼした影響は計り知れません。プロテスタントであったヤーコプ・グリム自身のフィロロジー解釈は、クラウス・ツィーグラーという人の指摘によりますと、ロゴスへの愛に深くねざしておりました。「まさに晩年のグリムにとり、フィロロジーは文字どおりの意味で理論
(theoreia)、すなわち神の観照への世界内在的な道、結局、世俗化された形の神学とみなされる。」
同じくプロテスタントのゲーテがカトリック的中世に対してあまり理解がなかったことにつきましては、ヤーコプ・グリムの文学的な仲介が役立ちました。「ゲーテとシラーのドイツ語に対する高い功績は非常に輝かしいので、中世のいくつかの文学作品について時折洩らされた彼らの嫌悪感は、それらの内実に深く関わっていたとは考えられず、偶然的な事情によるものとして、まったく取るに足らないものである。」これにより私はドイツ中世に対する愛着をそこなわれずに、ドイツ古典主義、あるいは最近の言い方によりますとワイマール古典主義の研究にいそしむことができました。まして中世の町並みが爆撃で破壊されずにそのまま残っているレーゲンスルブルクの旧市街に住んでいて、ゲーテがチェコの保養地カールスバートから密かにイタリア旅行に出かけたときに通ったドナウ河の石橋や最初に宿泊した河畔のホテル「白羊亭」(Zum
Weisen Lamm) を毎日見ていますと、中世と十八世紀と現代との時間の差をほとんど感じません。この町はまた、エルフルトでゲーテと付き合いのあった、のちのマインツの司教君主カール・フォン・ダルベルクがナポレオンによる領地替えで一八〇二年から八年間統治し、彼の善政のお陰でたとえば世界最初の植物学会が設立されました。ここへ来て初めて私は、シーボルトが日本の植物に関する最初の学術報告をなぜレーゲンスブルクの植物学新聞に寄稿したのか分かりました。
ヤーコプ・グリムは、弟のヴィルヘルムがゲーテをワイマールに尋ねているのに反し、なぜかゲーテと会おうとはしませんでした。ヤーコプのイタリア旅行も恐らく意図的にゲーテと異なるルートを辿り、陸路ジェノヴァまで行ってから船に乗り、ナポリで上陸して北上しております。しかし彼はゲーテのいわゆる『最後の手の全集』(Ausgabe
letzter Hand)を熟知しており、『ドイツ語辞典』にゲーテの著作から実にたくさんの用例を引用しています。これを正当化するため、ヤーコプ・グリムは序文の中で次のように述べております。「あちこちでルターとゲーテからの引用が多すぎると思われるかもしれない。しかしルターのドイツ語に及ぼした影響、ゲーテのドイツ語の力は豊富に、かつ目に見えるように例示されなければならない。繰り返し用いられた言い回しにおいてさえ、どの語法も表現の独自の魅力を展開している。たとえば
ahnungsvoll(予感に満ちて)や bethatigen(実行する)などの見出し語において重要だったのは、ゲーテが好んで用いた語の成長と確立の過程をよく示すことである。」
グリムがこれらの言葉を書いたのは、一八八五年以来エーリヒ・シュミットなどワイマール版ゲーテ全集の刊行者たちがゲーテ文献学を確立するはるか以前のことであります。ゲルマニスティクの学問的創立者がだれよりも先にゲーテをこのように高く評価していたのであれば、駆出しのゲルマニストである私には、自分の力の及ぶ限りゲーテ研究に従事する十分な根拠がありました。そのうえ私には、ゲーテ文献学は最初から一種の文化科学的研究分野のように思われました。ゲーテの文芸用語とともに私はさまざまなテーマをもったゲーテの精神的世界を研究することができましたし、何よりもヴィルヘルム・ディルタイやエドワルト・シュプランガーのような一流の精神科学者たちがゲーテに関する優れた研究書を著していたからであります。これらの書物は日本語に翻訳されて、我が国におけるゲーテ受容につよい影響を与えました。とくにディルタイの『詩と体験』あるいは『体験と文学』(Das
Erlebnis und die Dichtung)は、その生活体験にもとづく作品理解という見方により文学解釈の方法に一時期を画したものであります。
戦前の日本においてゲーテ研究者たちが用いていたのは、主にJubilaums-Ausgabe
という注釈付ゲーテ全集でありましたが、ゲーテ、とくに『ファウスト』を濫用した不幸なナチス時代をへた第二次大戦後、私を含め当時の若い世代の多くが愛用したのは、詳細な文献学的注釈の付いたハンブルク版というゲーテ全集でした。同時期に刊行されたアルテミス記念版という大部のゲーテ全集は、個々の作品の注釈が付いていないため、私はあまり使用しませんでした。しかしゲーテ研究史を調べているうちに、私は、ゲーテ文献学が精神科学の最高の成果であるばかりではなく、ドイツ人のあからさまな国民的フィロロジーであって、しだいに国家目的のための道具にされていったことが明らかになりました。そこで私のゲルマニスティクに対する態度は、たんなる作品解釈からイデオロギー批判的なものに少し変わっていき、精神そのものではなく、ドイツという修飾語を付された言葉、すなわちドイツ精神が、ナショナリズムと結びついた日本精神と同じく重大な問題をはらんでいることに気づきました。事実、近代ドイツ精神史において、精神のこの価値転換は、ヘーゲルにおいて頂点に達するドイツ観念論から世紀末の生の哲学をへてルードヴィヒ・クラゲスの概念「心霊の反逆者としての精神」("Der
Geist als Widersacher der Seele") に至るプロセスに明白に認められます。
ナチによって処刑されたミュンヘン大学の女子学生ゾフィー・ショルの精神的な師でありながら、もうほとんど忘れ去られてしまった思想家テオドール・ヘッカーは一生涯この「精神と生」(Geist
und Leben) の問題と対決し、私はとくに彼の遺著『昼と夜の日記一九三九年ー一九四五年』(?Tag-
und Nachtbucher 1939-1945") からきわめて多くのことを学びました。とりわけ彼の影響のもとで、私は生物学的な生の哲学に反発し、精神科学の価値を疑ったことは決してありませんでした。私はごく初期からフィロロジーこそ真のドイツ精神であると認識し、ゲーテ文献学を浅薄な毀誉褒貶にかかわらず、今日に至るまであらゆるゲーテ研究の基盤と考えているからであります。一九八二年、二度目の長期ミュンヘン滞在の際しばしばそこでゲーテ研究に従事したバイエルン州立図書館は、私には本当にドイツ文献学の牙城のように思われましたし、その後ウィーンのオーストリア国立図書館の壮麗な展示ホールを参観したとき、本を書くということがいったいどういう意味をもっているのか、自戒の念をもって悟りました。
しかしながら数年まえウィーンで聞いて驚いたのは、今日ドイツ語圏で精神科学について語るのはもはや
modern ではない、なぜなら「精神」というものが古くさくなってしまったから、ということでした。たしかに、もう大分まえから、その社会的意義あるいは役割との関連から精神科学の危機ということが言われております。分かりやすく言いますと、人文系の学問などもう社会の役に立たないということであります。しかし先見の明のあるゲーテはすでに、ファウスト博士の教授ガウンに身を隠したメフィストフェレスに、皮肉たっぷり次のように言わせています。「生けるものを認識し記述しようとする者は/
まず精神を追い出そうとする/そうすれば部分を手にすることができる/ただ残念ながら精神の絆が欠けている。」(一九三六ー一九三九行)これは中世の大学における7つの「自由学芸」artes
liberales について言われているもので、ドイツの大学の文学部はのちにそれらが発展してできたものです。アメリカの大学では、それらは
Humanities と呼ばれております。いま述べた危機ということが本当に現実に即したものであるならば、それはまさに、個々の知識ばかり集積して精神科学から精神を追い出し、さまざまな専門分野を包括する全体を精神の絆で復活させていないことの徴候であります。まして精神科学者そのものが万一精神的な力を失っていたら、事態はもっと深刻でありましょう。
とにかく私の考えでは、精神科学自らは自己の学問的原理に忠実に従っている限り、その危機といわれているものに責任はありません。この学問的原理とは究極においてテクストの厳密な読解とテクストとの批判的対決にあり、昔からあらゆる言語の文献学において実践されてきたことであります。私の確信しているところによれば、ベンヤミンが『親和力論』の中で指摘している事実注釈
(Sachkommentar)と真理内容(Wahrheitsgehalt)とは決して二律背反的原理ではなく、互に補完すべき関係にあります。ある文学的テクストを十分に把握するためには、まず言語的に精確に理解するほか、歴史的あるいは社会的関連を多かれ少なかれよく知っていなければなりません。そして、そこに書かれていることが美的価値を有してるか否か、真理であるか否かを判断するためには、自分なりの価値判断の基準をもっていなければなりません。ですから、方法論をめぐる議論がいかに百出しようとも、ゲルマニスティクはあくまでも
deutsche Philologie、すなわち広義のドイツ文献学ないしドイツ語学・文学研究部門にとどまるべきであります。
他方で、新しい文化科学的問題提起、文化人類学・文化的相互依存性・ポスト植民地主義・身体語・カルチャーあるいはジェンダースタディーズなどは、制度的に新に設置すべき学部ないし研究所に所属するのが当然であります。たとえばドイツの新制大学であるバイロイト大学には
Geisteswissenschaftliche Fakultatとならんで、すでにKulturwissenschaftliche
Fakultat があります。私の考えでは、学際性あるいは綜合的統一(Integration)の名のもとに学問的研究領域を混合するのは、ドイツ・ロマン派におけるジャンルの混交のようにカオスを引き起こすだけであります。芸術や文学において、それは場合によって創造的な作用を及ぼすかもしれませんが、精神科学においては決してそうではないでしょう。ゲーテとシラーがその往復書簡のなかで徹底的に論じたのは、叙事詩と戯曲という文学的ジャンルの根本的違いを明らかにすることでありました。同様にゲーテは、『ノヴェレ』という短編小説、『メールヒェン』という童話、『バラーデ』という物語詩を書いています。専門領域を越えた文化科学的学際性は、ほんらい自然と芸術の領域にまたがるゲーテ文献学において、以前から当然のこととして実践されてきました。その雄弁な証拠は、いろいろな学者・文人・芸術家、政治家に至るまで夥しいゲーテ論を遺してきたドイツにおけるゲーテ受容史であります。たとえばエッカーマンの『ゲーテとの対話』は、十八世紀の文学史、文化史、美術史にとってさまざまな知識の宝庫であります。それが新しいゲーテ崇拝のきっかけとなるのでなければ、その研究は大いに歓迎すべきものです。
そもそも精神科学に代わって文化科学という新しい名称を用いるのは、たんにそれが現代的に響くからというのではなく、激動する社会の変化に応じたものであるならば、それなりに正当な理由がなければならないと思います。精神科学確立の必要性が感じられたのは、十九世紀後半、自然科学の発達に伴って精神の尊厳が脅かされるようになったためであります。文化科学の場合、世紀末にそれまでヨーロッパで全く知られていなかったような新しい文学や美術が台頭してきましたし、第二次世界大戦後はさらに新しいメディアの登場によって多種多様な大衆文化が世界中に広まっていきました。これらを研究するためにアメリカで成立したのが複数形の文化科学
(Kulturwissenschaften) としますと、それは理論的というよりは経験科学的な概念と考えられます。だからこそ、その研究は複雑な文化形態に対応して多様にならざるを得ないわけであります。とくに現代においてはニューメディアの発達によりあらゆる文化創造が科学技術を媒介にして行なわれますので、文化科学の研究対象領域はもはや截然と分かつことができません。光学と色彩美学を対象とするゲーテの『色彩論』は、まだ萌芽的とはいえ、深い洞察に富むそのよい先例であります。ですから文化科学は精神科学を越えて社会科学的あるいは自然科学的な見方をも取り入れなければなりません。それはある程度までヨーロッパ啓蒙主義のフランス百科全書派の再来を思わせますが、ここで再び脚光を浴びてくるのが、ヘルダーの雄大な歴史哲学『人類史哲学考』("Ideen
zur Philosophie der Geschichte der Menschheit")
であります。彼の思想が現代歴史学の経験科学的知見とコンピューターのデータ処理によって裏打ちされるならば、それはまさにグローバル時代の指針となることでありましょう。
これに対し単数形の文化科学 (Kulturwissenschaft)
は原理的に、一九〇〇年以後に顕著となった伝統的価値の崩壊に対処するため台頭してきたドイツ新カント派の文化哲学
(Kulturphilosophie)とほぼ一致すると考えられます。これに属しているのは、古い世代の日本の読者にはお馴染みの哲学者たち、ヴィルヘルム・ヴィンデルバント、ハインリヒ・リッケルト、ゲオルク・ジンメル、マックス・ウェーバー、エルンスト・カッシーラーなどの文化理論であります。注目すべきことに、これらのうち、私の知る限り、マックス・ウェーバーを除く哲学者たちはいずれもゲーテ研究書ないしファウスト論を書いておりまして、それらはすべて日本語に翻訳されております。彼らは明らかにゲーテのヒューマニズム、少なくともゲーテの文化概念に復帰しようとしていたに違いありません。日本人の教養主義の原点もここにあると考えられます。ただ日本ではドイツ風の文化概念の影響をつよく受けすぎて、いまだに精神的文化と物質的文明をとかく区別するきらいがあるように思います。とくにナチズムの世界観において、この区別は非合理主義なドイツ神秘主義と欧米の科学技術的合理主義を対比させるために濫用されました。フランス語圏では文化と文明のこのような価値評価の違いを知らず、等価のまま文脈に応じて使いわけているようであります。
最後に文化科学的問題提起として私が一つだけ取り上げておきたいと思いますのは、東西文化といわれるときの東と西の概念であります。いうまでもなく両者は相関概念であって、東洋と西洋、東欧と西欧、アメリカの東海岸と西海岸、それに関東と関西などいかようにも適用することができます。しかし、昔「光は東方から」(Ex
oriente lux)と言ったとき、この東は明らかに中近東をさしておりました。ところが、ドイツ語の比較文化論を読んでいますと、それはいつのまにか極東まで含む漠然とした概念になり、イスラム教、チベット仏教、ヒンズー教、小乗仏教、大乗仏教、道教、儒教、神道に至るまで明確な区別なしに東洋思想に包括されていきます。これに対比されると西洋思想もキリスト教内部の分裂と哲学史の多様性を失い、同様に漠然としたものになります。ですから、ここでも特定の言葉の意味内容をできるだけ明確にするフィロロジーが必須不可欠となってきます。ナチズムのように不明確な概念でかたちづくられた世界観ほど人心を惑わし、社会を害するものはありません。
たとえば、ルターがオリエントという言葉を
Morgenland と訳したとき、ヨーロッパはおのずから
Abendlandでありました。しかし厳密にいえば、それもヨーロッパがノヴァーリスが夢想した精神的な統一世界を形成していた中世までで、このキリスト教的西欧はナショナリズムが起こってくる近代以降はゼウスの神話に始まるヨーロッパの名で呼ばれるべきであります。ゲーテが『西東詩集』の中で「東洋は神のもの、西洋は神のもの、北方も南方も神の御手の平安のうちに休らう」と歌ったときも、東洋とはオリエントのことでありました。従って、オスヴァルト・シュペングラーが『西欧の没落』("Untergang
des Abendlandes")を書いたとき、太陽は「日出る国」日本から昇り、中華(中夏)の中国大陸で頂点に達し、文明が爛熟期をむかえたヨーロッパで沈んだのではなく、中世の世界像のままオリエントから昇り西欧で沈んだことになります。問題はこの西欧が今日ヨーロッパ大陸を越えて、ドーヴァー海峡、大西洋のどこまで及んでいるのか、ということです。私の考えでは、日本は極東ではなく極西に位置しています。さらに問題なのは、「光は東方から」(Ex
oriente lux) のラテン語の句は "ex occidente
lex"、すなわち「西方から法、法律」と続いていることであります。現在の世界情勢を見ていますと、東方の光が消えることなく、欧米から本当に法と正義
(das Recht)が来ることをこいねがわずにいられません。
すでに定年退職した者が現役の方々にいろいろ注文をつけるようなことを申し上げました。今はそうではありませんが、一昔まえのドイツの大学教授というものは、なんでも許されるけれど、講演のときだけは五十分以上話してはならない、といわれておりました。最後にひとこと付け加えさせて頂きますと、ニーチェは『反時代的考察』について、「四編の反時代的考察は、徹頭徹尾戦闘的である。これらの書は、私が決して夢想家ハンスではなかったこと、刃を抜くのが私にはよろこびを与えることを証明する」と述べております。私も人生の終わりにせめて一度学問的に戦ってみたかっただけのことであります。要するにゲーテ文献学をやるためには、原理的にいかに反対でも文化科学的にすべてのことを研究せねばならず、私は老年になってもなお多岐亡羊の危険にさらされているのであります。ご静聴ありがとうございました。
ドイツ連邦共和国首相ヘルムート・コール博士記念講演
−統合ドイツとヨーロッパ−
(1993年2月27日)
ただ今、上智大学名誉博士号を授与されましたことを、たいへん光栄に存じます。それに対し心から感謝いたします。私はそれを、特別な仕方で私を日本と結びつける栄誉としてお受けしたいと思います。
上智大学は三世紀半以上にわたるヨーロッパと日本文化の出会いの一部であります。この出会いにおいて日本は、ヨーロッパ史の形成に決定的な役割を果たしたキリスト教に接し、ヨーロッパ諸民族と文化の生活に今日きわめて本質的な影響を及ぼしている科学技術の世界に入って行きました。そのさい日本が絶えず心得ていたのは、当初は異質のもの、「新しいもの」を自分のうちに摂取しながら、固有の伝統・歴史・文化との密接な結びつきを放棄しないということでありました。
上智大学は一九一三年の創立以来、ヨーロッパ文化と日本文化の仲介者として著しく貢献してきましたが、この文化交流はドイツ人と日本人のすべてを豊かにしてくれるものでありました。上智大学の創立にあたりイエズス会士ヨゼフ・ダールマンとヘルマン・ホフマンが確認していたように、「学術の面でドイツは日本で第一位を占め、ドイツ語は学問用語として認められて」おりました。
日本の優れた著述家と学者たちが当時ドイツへ留学しました。代表的な一例は、ゲーテの『ファウスト』やクラウゼウィツの『戦争論』などを日本語に翻訳した森鴎外であります。当時すでに日本の科学者たちはまたドイツの実験室で研究を行い、偉大な学問的業績に本質的に寄与しました。今日、学術・芸術・文化におけるアメリカの役割ははるかに大きくなり、学問用語として英語が第二次世界大戦終結いらい第一の地位を占めるようになりました。しかし法律学、哲学、さらに医学におけるドイツ語の影響は今日に至るまで感じられます。
今日まで最も永続的な影響を及ぼしているのは、もとより、ドイツのヨーロッパ音楽であります。今世紀の初頭、日本ではまだ、バッハ、ベートーヴェン、モーツァルトはほとんど知られておりませんでした。ところが今日かれらの音楽は、日本人の文化生活の不可欠の要素となっております。この音楽は、ベルリン、ケルンあるいはミュンヘンにおけると同様、東京、大阪その他多くの都市の人々の心を豊かにしております。私たちはみな、かれらの音楽を共通の文化遺産と感じているのであります。
この文化交流の歴史は、しかしながら決して一方交通ではありませんでした。とりわけ二人の偉大なドイツ人日本研究者、すなわち十七世紀のエンゲルベルト・ケンペルと十九世紀のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは長崎出島のオランダ商館医師を務めながら日本を研究調査し、その歴史・芸術・文化をヨーロッパの人々に紹介しました。日本との出会いは、ヨーロッパの多くの芸術家たちにも深い印象を与えずにはおきませんでした。それはファン・ゴッホ、マネ、クリムトなどの作品から簡単に見逃すことのできないものであります。
今日、グローバルなコミュニケーション時代において、この文化交流は以前にもまして緊密であります。ドイツ人と日本人は学問研究、音楽その他多くの分野においてパートナーであり、両者の活動に示されるのは、ドイツと日本の実り豊かな学問的・文化的関係がいかに多くのことを成し遂げられるかということです。この関係は、新しい芸術的および学問的成果をあげるための尽きることのない源泉、相互の好意・共感と相互理解の基盤であります。
前回、一九八六年の私の訪日以来、ドイツ、ヨーロッパそして世界中で画期的な変化が起こりました。私たちドイツ人にとりまして大きな夢が成就されました。四十年以上にわたる苦しい分裂ののちドイツは平和と自由のうちにその統一を回復したのであります。ベルリンの壁崩壊とともに、ドイツ人が東西陣営対立の焦点になっていた一時代が終焉しました。今日、私たちは国際政治における新しい時期の始まりを体験しつつあり、互いに協力して永続的な平和と安定した自由のうちに未来を建設するチャンスに恵まれております。また、この変革により私たちすべては時代の大きな挑戦を受けております。自由は義務を伴うからであります。
ドイツの東部でいま重要なことは、共産主義体制の遺していった荒廃を克服することであります。私たちがここで直面している課題は、歴史にその例を見ないものです。ドイツ東部における経済的再建を成功させるためには、莫大な梃子いれが必要です。長期にわたり、国民総生産の四ないし五パーセント、すなわち毎年千四百億マルクほどのお金が新五州の再建のために調達されなければなりません。私たちは再統一以来、二年半ほどの間に困難な道程をあとにし、勇気づけられるような前進をとげました。その際、反動的なことも失望もありました。にもかかわらず、私たちは、信頼の念を抱いて未来に向かっています。
私は確信しておりますが、数年のうちにドイツ東部もヨーロッパの最も近代的な産業拠点の一つとなるでしょう。この再建事業に日本企業の投資による協力が寄せられていることを私はうれしく思います。しかし、すべての経済問題よりもっと難しい問題は、共産主義の独裁が人々の心に負わせた深い傷を癒すことであります。四十年以上も東西のドイツ人は全く異なる条件のもとで自分たちの生活を築いてきました。かれらの経験してきた事柄も根本的に違っています。両者を一緒にするには時間がいります。それは九十年代の大きな課題の一つで、ヨーロッパ的次元をも有しています。
ドイツ政治は、ドイツ統一とヨーロッパの統一が表裏一体をなしているという確信にもとづいています。それは、自由で統一されたヨーロッパにおける自由な統一ドイツというビジョンであります。再統一は、東西におけるドイツのすべての友好国、パートナー、隣国の同意を得て達成されました。この根本体験は私たちドイツ人にとりまして、ヨーロッパ統一事業の継続に全力を尽くして邁進する勇気を大いに与えてくれるものであります。ヨーロッパは私たちにとりまして運命的な問題であり、私たちの目標はヨーロッパの政治的統一、ヨーロッパ連合の創設であります。
ヨーロッパ共同体は順調にいっており、私たちは過去数年のあいだに決定的な進歩をなしとげました。三億四千万人の市民を擁するヨーロッパ域内市場は、今年の一月一日に実現されました。私たちは一九九一年末にオランダの都市マーストリヒトでヨーロッパ連合の礎石を置きましたが、段階的に経済連合と通貨連合を創設し、統一的なヨーロッパ通貨を導入したいと思っております。私たちが同時に望んでいるのは政治連合であります。これに属するのは共同の外交と安全保障政策です。それは、ヨーロッパがすべての重要な問題において一致して発言し、とりわけ共同で事に当たれるようにするためです。
もう一つの重要なステップは、ヨーロッパ共同体の拡張ということになるでしょう。オーストリア、スウェーデン、フィンランド、ノルウェーはすでに加入を申請しておりーー私は確信しておりますがーー数年のうちに共同体の加盟国となるでしょう。この拡張された共同体にも当てはまるのは、開放市場と自由世界貿易が経済成長と繁栄の基盤である、ということであります。
冷戦の終結後私たちが直面している試練を、私は第二次世界大戦後の変革になぞらえたいと思います。私たちドイツ人が協力しようとしている未来の大きな課題は、永続的かつ公正な平和秩序の創設です。私たちはそれを私たちのすべてのパートナーと一緒に築き上げたいと思いますが、そのさい日本の寄与を断念することができません。東西陣営対決の終結後、国連には、世界平和と国際的安全保障に対するその責任を十分に果たす新しいチャンスが開けてきました。
ヨーロッパでは北大西洋同盟が一世代にわたり平和と自由を確保してきました。ヨーロッパとその中心に位置するドイツの平和と安全に対するアメリカの役割と責任は、将来も依然として実存的意義を有しております。私たちはいま「北大西洋協力評議会」を越えて、かつての東ブロックの国々との以前の敵対関係を新しい安全保障パートナーシップに変えていこうとしています。「全欧安保協力会議」で私たちは、自由・民主主義・法治国家・基本的人権という共通の価値に対する義務を負いました。日本がこの課題に積極的な関心を示していることを、私たちはうれしく思っております。
しかし私たちが目を閉ざしてならない事実は、今日、ヨーロッパ中部、東部および南東部の各地で、またコーカサスでも中央アジアでも、十九世紀さながらの偏狭なナショナリズムが再び台頭し、かつてのユーゴスラビアにおけるように、流血の惨事を引き起こしていることであります。共産主義の崩壊後、ヨーロッパ中部、東部および南東部、またソ連邦の中央アジア後継共和国の諸民族が自分たちの国民的独自性に思いをはせるというのはよく理解できます。しかし私たちすべての目標は、この国民的再起をあくまで自由・民主主義・基本的人権および少数民族の権利の理念と結びつけることでなければなりません。そのさい重要なのは広義の安全保障と政情の安定であります。それゆえ、国家共同体の中心的課題は全体として、困難な改革途上の国々を見守り、それらの国々に自助への援助を提供し、世界経済に組み入れることであります。
この際に、私たちが第二次世界大戦後ヨーロッパの再建にさいして得たさまざまな経験を生かすべきであります。当時、西側政治の成功の秘密は、外からの援助を、受け入れ諸国が緊密に協力し合うという責務と結びつけたことにありました。この成功の経緯を私たちはいまや手がかりにしなければなりません。その際、改革途上の国々は主要な重荷を自分で担わなければなりませんが、抜本的な経済的・社会的改造は外からの援助で支援されなければなりません。いかなる国も、私たちのまえに横たわるいろいろな課題の重荷を自分だけで担うことはできないからです。すべての国が、自分にふさわしい貢献を果たすよう要請されています。
私たちドイツ人は援助をしようにも支援能力の限界に達しました。ドイツは独立国家共同体の国々に八百億マルク、ヨーロッパ中部、東部および南東部のすべての諸国に総額千五十億マルク調達しました。ドイツ東部の再建のために拠出した補助金のほかにです。今日、成果をあげようと思うならば、西側諸国全体の援助が必要です。それゆえ、私がぜひとも必要と考えているのは、日本もこれまで以上に西側の共同責任に加わり、その経済的ウエイトにふさわしく、ヨーロッパ中部、東部および南東部と独立国家共同体の国々における改革の成功に寄与することであります。そのさい問題になるのは、ロシアに対する援助だけではありません。ヨーロッパ中部、東部および南東部の国々、バルト三国、さらにかつてのソ連邦の中央アジア後継共和国ーーこれらの国々すべてが私たちの援助を必要としています。
ところが、西側にはーーこれには日本も属しているのですがーー選択の余地はありません。ヨーロッパ中部、東部および南東部とかつてのソ連邦におけるさまざまな改革政治を包括的かつ継続的に支援することへの理性的な二者択一は存在しないのです。今もし出費を節約するならば、近い将来に、何倍にもなってそのつけが私たちに回ってくることでしょう。新しい民主主義諸国家がもし自分だけで経済的困難を抱えたままでいるならば、新しい難民の流出が始まったり、他の制御できない政治的問題に発展することがありえます。今日これらの国々に起こることは、明日そして明後日、私たちすべてーードイツ人、日本人、アメリカ人ーーにとって運命的となるでしょう。
一言でいえば、手を拱いて見ているだけで、しかも間違ったところで節約するのは、私たちすべての未来に対する考えられる限り最悪の投資ということになるでしょう。私たちすべて、ヨーロッパ人、アメリカ人そして日本人がいまや力を結集し、正しいことを行うならば、私たちには、より多くの自由があり、平和がより確保され、人間の自然な生活基盤がより効果的に保持され保護される世界を一緒に形成していくチャンスがあります。
最後に若い世代に向けてもなおひとこと言わせてください。今世紀の戦争が夥しい数の人間にもたらした苦しみを振り返ってみますと、私は、こんにちーー二十一世紀への境目にーー若い世代に平和と自由のうちに過ごせる全き生活の展望が開けているのを大きな幸福と感じます。私たちのまえに横たわる課題は難しく、それらを克服するために歴史の中に手本はありません。上述した時代のさまざまな挑戦に打ち勝つために、私たちは勇気と連帯意識を必要とするでしょう。ここで学んでいる若い皆さんには、未来を形成するチャンスがあります。それは皆さんの未来です。イニシャティヴ、創造的知性、学問的および技術的実行力、そして断固として自信をもって未来の大きな課題に立ち向かう心構え、これが成功の前提でありましたし、またいつもそうであります。
ここで仕事をされ、学んでおられるすべての方々に、ご多幸と神の祝福をお祈りいたします。
デイートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ講演会
−ライヒャルトとゲーテ−
(1992年11月20日)
Prof.Dr.h.c. Dietrich Fischer-Dieskau 氏の著書:
,Texte deutscher Lieder" (1968)
,Auf den Spuren der Schubert-Lieder"(1971)
(邦訳『シューベルトの歌曲をたどって』原田茂生訳、白水社、1976年)
,Wagner und Nietzsche" (1974)
,Robert Schumann" (1981)
,Toene sprechen, Worte klingen"(1985)
,Nachklang" (1987)
,Wenn Musik der Liebe Nahrung ist"(1989)
,Weil nicht alle Bluetentraeume reiften"(1992) *
*『3人のプロイセン王の宮廷楽長ヨハン・フリードリヒ・ライヒャルト ー肖像と自画像ー』
序論にかえて/テクストの校訂/神童/遍歴時代/フリードリヒ二世の宮廷楽長/芸術詣で/王なしの歳月/フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の宮廷楽長/リート作曲家/舞台作曲家/ゲーテ/ギービヒェンシュタインにて/解雇/クセーニエン論争/フリードリヒ・ヴィルヘルム三世のもとで/いま一度ゲーテ/フランス旅行/「ロマン派の館」としてのライヒャルト家/戦乱/カッセルでの寓居/2度目のウィーン旅行/新しい歌曲/晩年/その後30年間の反響/消えゆく余韻/作品目録「著者がヨハン・フリードリヒ・ライヒャルト(1752ー1814)の伝記を書くきっかけになったのは、この作曲家が18世紀のドイツ・リートの成立にあたって演じた大きな役割である。彼はシューベルトのために道を拓き、彼の作曲のうちいくつかは、たとえば『眠れ、幼な子よ』は民謡となった。
ライヒャルトは3人のプロイセン王に宮廷楽長として仕えた。23歳のときフリードリヒ大王によりベルリンの宮廷に召し抱えられた彼は、フリードリヒ・ヴィルヘルム二世のもとでドイツ・オペラの創作に力を尽くしたが、フランス革命に始め共鳴したため一時的に不興を蒙った。フリードリヒ・ヴィルヘルム三世はライヒャルトのオペラ『ブレヌス』を非常に愛好し、王妃ルイーゼはライヒャルトの声楽の生徒であった。ゲーテと彼は緊密な関係にあった。
ライヒャルトは1000以上の歌曲、7つの交響曲、16のオペラ、オペレッタ、オラトリオ、バレー曲、メロドラマ、舞台音楽を書いたが、これら無数の楽曲の作曲とならんで彼は、著述家、音楽評論家、種々の雑誌の編集者としても活躍した。
著者はこの歴史的に重要な芸術家の足跡をたどり、その時代の記録文書・書簡・自伝的手記を自分自身の叙述と結びつけ、当時の人々と出来事を読者に彷彿とさせる時代像を描き出している。彼はゲーテ時代の一人の優れた音楽家、有能多才なヨハン・フリードリヒ・ライヒャルトを忘却から救い出したのである。」
ライヒャルトの生涯は、天才崇拝と多感な友情が一種の代用宗教にまで高まった時代にわたっていた。ロマン派のこの友情崇拝は、芸術家の孤独な存在にその源があった。親しい友人たちは、敵意をもった世界の中で、互いに理解し合い、精神的な支えを見出したのである。彼はこうしてティーク、ノヴァーリス、シュレーゲル、シュライエルマッハーなどの人々と接触し、かれらを結びつけていったが、世代と素質の違いから自分の家族的世界に孤立していた。
18世紀におけるドイツ・リートの成立は、音楽史の中であまり注目されていない。それを作り出した人々の伝記や芸術的発展は記述されることなく、そのジャンルそのものと同様忘れ去られてしまった。この生成過程の中で果たした重要な役割を繰り返し強調されながらも、ライヒャルトはハイドン、モーツァルト、ツェルターの背後に退かねばならなかった。
しかしライヒャルトの伝記は疑いもなく、音楽史の最も興味深いものの一つである。それはバロック時代末期、フランス革命の時代、擬古典主義への関心、ロマン主義の始まりにまたがっている。彼はまた当時の最も重要な人々、音楽家・画家・詩人・哲学者・政治家と交際があった。市民的啓蒙主義に従い、作曲家ライヒャルトも、軽佻浮薄なロココ趣味に反発して道徳と自然さを重んじた。
18世紀末、ゲーテ時代の芸術家と学者たちはイタリアに憧れていた。それに反しライヒャルトは、イタリア音楽に失望して、ドイツ・オペラの創作に向かった。それは時代の動向でもあった。彼は反対や陰謀を気にしなかったが、遂にプロイセン王家の不興を買ってしまった。その目標に彼が共鳴していたフランス革命の挫折後、硬直した擬古典主義的芸術が優勢となった。それは彼の第二の失望であった。しかしシェリングの意味の理想的美は、ライヒャルトの溌剌とした音楽活動から生ずることができた。
感性に溢れ、真理愛に駆られるライヒャルトは、ゲーテのように静かに考量しながら創作することができなかった。ギービヒェンシュタインの彼の屋敷には、理想と現実を容赦なく分離する若いロマン派の人々が盛んに出入りしていた。「芸術家の感情は彼の法則である」というシラーの言葉は、ロマン主義の音楽に全くよく適用できるものであった。ライヒャルトが自由奔放なファンタジーへの歩みを行ったのは、とりわけリートにおいてであった。客観的態度の欠如を彼は、不断の著述活動によって補おうとした。
ライヒャルトの功績は、疑いもなく、芸術リートの発展に大きく寄与したことである。リートは18世紀後半の音楽ジャンルにおいてまだ小さな役割しか演じておらず、伴奏付きの民謡風の独唱は生活の飾り程度にしか見られていなかった。それがゲーテの内容豊かな抒情詩の登場によって一変してしまった。ライヒャルトはそれらにいち早く作曲し、同じくワイマールの詩人によって触発されたシューベルト以来、このジャンルにおいて偉大な成果が挙げられた。ゲーテ自身、自分の詩の多くをリートと呼び、音楽が詩句を初めて完全なものにすることを確信していた。
ツェルターよりまえにゲーテの友誼を得ていたライヒャルトは、ゲーテの判断で、彼自身により提示されたリート美学的要請に応えた最初の作曲家であった。ライヒャルトは、詩の特徴的なものを言語面から獲得するようにとのゲーテの基本的要請から離れることは決してなかった。ライヒャルトが死んだときシューベルトは感情に満ちたリートを創始したが、このオーストリア人はかの東プロイセン人をよく研究していたのである。
ライヒャルトはオペレッタの領域で教育的に、すなわち啓蒙主義的に活動することを目指していた。単純な歌うことのできるメロディーをもった真面目な楽曲で市民生活の道徳を強めようとしたのである。彼の作曲したゲーテ歌曲の頂点に立っているのが、「クラウディーネ・フォン・ヴィラベラ」(1789)「エルヴィンとエルミーレ」(1790)「イェリーとベテリー」(1801)などのジングシュピールである。最も有名なのは、「エルヴィンとエルミーレ」の中の「すみれ」の歌詞に付けた二つの作曲である。
ゲーテは、音楽理論を学ぶため、長年の友人である作曲家フィリップ・クリストフ・カイザーを伴ってイタリアへ旅行した。しかし帰国後、ワイマールでの共同制作がうまくいかなかったこともあり、二人の関係は疎遠になった。カイザーが作曲した「諧謔、悪計と復讐」は失敗作であった。そこへ彼の代わりに音楽の権威としてゲーテまえに現れたのがライヒャルトであった。ライヒャルト作曲の「クラウディーネ・フォン・ヴィラベラ」はゲーテの気に入った作品であった。
ライヒャルトがゲーテに接近したことは、ゲーテとまだ親交を結ぶに至っていなかったシラーには堪え難いことであったように見える。1789年4月に彼は、友人のクリスティアン・ゴットフリート・ケルナーに、ライヒャルトは出しゃばりで厚かましい鼻持ちならない奴だ、と悪口を書いている。ライヒャルトは出しゃばりで通っていたが、真実をあけすけに言う人間はお世辞になれている人々のもとでは悪人呼ばわりされるものである。しかしゲーテの懸念はすぐに消滅し、やっと一流の音楽家と音楽について語り合えることを喜んでいた。
イタリア・オペラに傾倒している宮廷派にドイツ・オペラを声高に非難する新たなきっかけを与えたのは、ゲーテのジングシュピール「クラウディーネ・フォン・ヴィラベラ」の上演であった。この作品を国民劇場の歌手たちは1789年8月3日、ライヒャルトの音楽でシャルロッテンブルク城において上演した。しかし宮廷社会の反響はあまりなかった。それは2回しか繰り返されなかった。同年7月に上演されたときには、モーツァルトのかつての恋人で彼の妻コンスタンツェの姉アロイジア・ランゲが主役を歌った。イタリア・オペラの音楽家たちがドイツ・オペレッタを上演したのはこれが初めてであったが、成功はしなかった。
ドイツ派とイタリア派の対立から生じた混乱は止まるところを知らなかった。ライヒャルトは曖昧な態度をとり、辞職して陰謀を避けようともしなかったので、ベルリンでは人々の目の敵となった。当時、ワイマールのカール・アウグスト公は宮廷劇場を設立する計画を立てていた。首都ベルリンの宮廷楽長かつ博識のジャーナリストであるライヒャルトは、ワイマールの宮廷オペラの企画を立てるのにおあつらえ向きであるように思われた。こうしてゲーテははからずも音楽監督の面でライヒャルトのパートナーとなった。
イタリア・オペラ派との妥協に応じなかったライヒャルトに、政治的な暗雲が迫ってきた。人々は彼がフランス革命に共鳴していることを咎めたが、それは官吏としての彼の地位を脅かすものであった。1791年、彼は国王の許可を得て3年間の休暇をとり、フランスへの旅に出た。ゲーテは彼の政治的態度に失望した。ライヒャルトは、彼の反対者たちが最終的に勝利をおさめた1794年に初めて、プロイセン宮廷の職務から正式に解雇された。国王から新しい宮廷楽長に任命されたベルンハルト・アンセルム・ウェーバーはモーツァルトの『魔笛』上演でドイツ・オペラの進出を大いに促した。
新中央図書館の象徴的意義
ケルン大司教 ヨゼフ・ヘフナ−枢機卿
(1983年12月3日)
上智大学新中央図書館の竣工式にあたり、私は、この図書館に収蔵される書物の中に、神ご自身に由来するかの英知と美が映し出されんことを心からお祈り申し上げます。さまざまな民族・宗教・文化圏の中で人間の精神と心情を背後から揺り動かしているすべてのものは、全く他のもの、すなわち神の秘義に関係づけられております。この関係は、しばしば明瞭に表れていることもあれば、ときおり隠れた形で、不安に満ちた動揺、ひそかな憧れ、あるいはまたしばしば公然の拒否として表れてくることもありますが、これもまた神と無縁ではないのであります。このような考察に促されて、私はいま、上智大学の新中央図書館に三つの象徴的意義を見たいと思います。
新中央図書館はまず連続性の象徴であります。
歴史というものが可能なのは、人間が、獲得したものを保持し、それを遺産として残すと同時に、新しいものを創造しながら未来を形成しうるからであります。確かに、かつてあったすべてのものが保持するに値するわけではありません。旧来のものを捨て去る当然の権利もありますが、決定的なことは、旧来のものとは何かということであります。伝統とは灰を保持することではなく、炎にして燃え上がらせておくことであります。この炎は時代を越えて妥当するもの、私たちに人間生活と現世の意味を説き明かしてくれるものであります。自分の周囲とうしろを振り返ってみない人は、すべてのものを見ることができません。「生命を保つのは、根をおろしたものだけであります。」(H・リュバック)。伝統とは、束縛ではなく、根をおろした大地の中に安全に守られていることなのであります。ゲーテのことばに、「聖なるものとして認められているものを保持し、それを真剣にふやしていこうとする者こそ」真の芸術家だ、というのがあります。古いものは古くなることがなく、古くなるのはいつも新しいものだけであります。
さて、最初にキリスト教関係の図書館が作られたのは連続性に奉仕するためでありました。これらの図書館が収蔵していたのは聖書、ミサ典書、教父たちの聖書解釈、神学者たちの著述でした。キリスト教以外の書物もありましたが、それは異教の文化と精神的に対決せざるをえなかったからであります。パレスチナのカエサレアにある有名な図書館には3万巻の書物が収蔵されておりました。キリスト教の敵対者たちが連続性を破壊しようとした一例は、ローマ皇帝ディオクレティアヌスが303年に出した布告「キリスト教徒の書物のうち引き継ぐべきものと焼却すべきものについて」であります。
新中央図書館は次に普遍性の象徴であります。
上智大学新中央図書館の書庫には、科学のあらゆる領域とあらゆる文化圏から生み出された書物があります。神のみ旨に従って、人類の精神的な豊かさは、神学・哲学・歴史学・自然科学・経済学・法律学・社会学など学問の研究分野の総体の中に、またあらゆる民族文化の多様性の中に現れてきます。すべてを一様にすることは貧困化にほかならないでありましょう。世界経済とグローバルな交通機関、新聞とラジオ・テレビ、戦争の脅威と平和への願望によって、人間は今日、これまでかつてなかったほど運命的な統一体へと結び付けられました。しかしながら、この必要欠くべからざる統一体は、個々の民族の文化的豊かさを破壊したり貧困化したりするものであってはなりません。ここで通用する法則はむしろ、さまざまな文化圏の実り豊かな相互交流であります。
とはいえ教会は、「その使命と本性により人間文化のいかなる特殊形態にも、特定の政治的・経済的・社会的な体制にも結び付けられてはおりません。」(教会憲章「喜びと希望」第42節)。教会はさまざまな文化の中で具現されることにより、「多彩な華美に囲まれて」新しい豊かさと飾りを得るのであります(詩編44、10)。
新中央図書館は最後に現代性の象徴であります。
もし新中央図書館をたんなる書物の倉庫、ミイラ化した知識の堆積、前世紀の遺物、あるいはガラスの陳列ケースに飾られた貴重品のコレクションとみなすならば、これほど致命的なことはないでありましょう。この新しい建物が作られたのは、図書館が包括的な意味の文化センターとなるためであります。新中央図書館は信仰を神学的に深めること、文化のあらゆる領域における研究と教育、真善美と聖なるものに奉仕すべきであります。
こう申しましても、私たちは、学問研究がそれだけで救いをもたらすものではないことをよく承知しております。先進工業国では長いあいだ、多くの人々が、科学によって人間と世界のあらゆる問題を解決しうる呪文が見出されたと思ってきました。しかし、このユートピアは誤りであることが暴露されました。人間の心が求めてやまないのは単なる幸福・愛・生命ではなく、変わることのない幸福、決して終わることのない愛、永遠の生命であります。いかなる科学も、いかなる進歩も、人間の心にねざすこの根源的な憧れがこの世では決して満たされえないという事実をあえて見過ごすことはできません。それが実現可能であるかのように説く東洋と西洋の予言者たちがいかにたくさんいようともです。
上智大学の新中央図書館がこのように連続性・普遍性・現代性の象徴として理解されるならば、この建物を完成するために払われたすべての努力は十分に報われたことになるのであります。
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