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| ロシア語学科とは | ロシア語学科の歴史|教員紹介 |

ロシア語学科の歴史

1.ロシア語学科の沿革

 上智大学ロシア語学科は、1957年4月、文学部外国語学科ロシア語専攻として、1期生22名を受け入れて発足しました。翌1958年に、外国語学部が発足し、1期生22名と新入生38名の2学年によって構成されるロシア語学科となりました。

 学科発足当時の教員は、ピオヴェザーナ学科長、高野槌蔵教授、小沢政雄助教授、G・ポツターヴィナ講師、染谷茂講師の5名でした。このうち、G・ポツターヴィナ、染谷茂両講師は、戦前ハルピン学院で教鞭をとった経験があり、上智大学ロシア語学科とハルピン学院の卒業生が強いつながりを持つ端緒を作りました。

 1959年には、G・ポツターヴィナ講師につぐ2人目のロシア人講師として、L・ヴェセロヴゾーロヴァ講師が赴任されました。発足当時のロシア語学科は、開講科目がたいへん少なく、そのほとんどが必修科目でした。現在の「地域研究科目」に当たる科目はほとんどなく、教員と学生が大学生活のかなりの部分を同じ教室で過ごす、という教育がなされていました。

 1965年には、学科長のピオヴェザーナ神父が上智学院理事長に就任、1967年には高野槌蔵教授が定年退職、同じ年、ポツターヴィナ教授が病に倒れられ、教員の数が減っていきました。この間、1965年に、学科第2期卒業生の江沢国康が、助手として採用されました。

 1968年には、学園紛争の波が上智大学にも押し寄せ、学生が学科のカリキュラムに公然と非難を浴びせる、という事態が生じました。教員と学生のあいだで大衆団交が繰り返され、学内の一部ではロシア語学科廃止論さえささやかれるようになりました。

 1968年末から1969年春にかけてのロック・アウト(大学当局による大学閉鎖措置により強硬派学生を排除すること)を境にして、大学全体が落ち着きを取り戻すと、大学当局もロシア語学科再建の方針を打ち出し、学科内部でもカリキュラムの再検討がはじまりました。

 1970年には、学科第4期卒業生の宇多文雄、中村泰朗が講師として採用され、翌1971年にはポツターヴィナ教授の後を埋める役割をになって、原タマーラ講師が着任しました。

 1970年代初めには、非常勤講師を含めたスタッフが充実し、現在の基となるカリキュラムができあがりました。

 1976年には、G・パヴレンコ(ヴェセロヴゾーロヴァ後任)、森俊一(原タマーラ後任)両講師が加わり、さらに1978年には内藤操(内村剛介)教授が北海道大学より赴任、1979年にはイエズス会神父のミヘルチッチ、1981年には中川エレーナ両講師が加わり、学科の陣容も充実してきました。

 1980年代になると、ソ連にゴルバチョフ書記長(後に大統領)が登場し、ペレストロイカ、グラスノスチという言葉が世界的な流行語になりました。日本でもロシア語やロシア文化を学ぼうという人の数が急激に増え、ロシア語学科の人気はうなぎのぼりになりました。

 1985年に赴任した吉住エレーナ(中川エレーナ後任)講師、1987年に北海道大学より赴任した外川継男教授は、新しい風を本学科に吹き込む役割を果たしました。

 1990年には本学科卒業生の有賀祐子講師が着任しました。1997年に愛知大学から着任した原求作講師も本学科卒業生です。

 1999年3月に有賀祐子助教授が退任しましたが、この春にはまた、長いあいだ学科の語学教育の中心的な存在だった森俊一教授が、在職中に病没するという悲劇もありました。

 2000年4月、外務省のシンクタンクである日本国際問題研究所から上野俊彦教授が、また本学科卒業生の井上幸義助教授が新たに学科のスタッフに加わりました。他方、2001年3月には36年の長きにわたって教鞭をとられた江沢国康教授が専任教員の職を去られることになりました。

 2002年4月からは、ロシア語同時通訳の第一人者で朝日新聞の記者を務めた徳永晴美教授が新たなメンバーとして学科のスタッフに名を連ねました。

 2004年3月、本学科でロシア史を中心とする地域研究の中核的存在であった外川継男教授と28年の長きにわたって教鞭をとられたG・パヴレンコ教授が退任しました。他方、この4月には、新たに青山学院大学から村田真一教授が着任しました。

 さて、ソ連崩壊後10数年がたち、一時的な混乱を経て、いまやロシアは、政治的にも安定し、経済的にも急速な発展を見せています。冷戦時代のソ連とは異なり、いまやロシアは普通の国となりつつあります。そしてロシアはまた、ダイナミックに変貌し、発展しつつある、若い国でもあります。他方で、経済格差などを背景に民族的・宗教的な対立が先鋭化して局地的紛争となり、しかもそれが21世紀を迎えて沈静化するよりはむしろ激化する様相を見せているという国際情勢の新しい変化にもロシアは深くかかわっており、テロ事件の発生や国内治安の悪化という点で、ロシアはわが国や欧米諸国とともに共通の課題をも抱えています。

 こうしてロシアは、冷戦期とはまったく異なる情勢のもとにあり、私たちも、そうした変化の影響を受けながら、新しい課題に対応しつつ、ロシア語を学び、ロシア地域研究をすすめていかなければなりません。それでも、ロシア語を学ぶこと、ロシアを理解することにとって、本質的なことがらに変化はありません。学ぶこと、理解することの難しさと、その困難を乗り越えたときの感動は、昔も今も同じです。

 ロシア語学科の学生は勉強が大変だとか、毎日毎日ロシア語に縛られて自由がないとかという話を聞くことがときどきあります。しかし、どの学部・学科でも、のんびり遊んでばかりいては、就職でも進学でも、満足できるような結果を得ることはできません。公務員試験や大学院への進学をめざす人はもちろん、それらの具体的な目標に向けて必要な勉強に取り組んでいかなければなりません。他方、多くの一般企業は面接だけで採用が決まると言っても、就職活動の始まる3年生までのあいだに、どれだけ真剣に勉強し、あるいは社会のことを考え、志望する仕事・職種のために何をしてきたのかが問われるのです。ロシア語を使って仕事をしよう、ロシアを相手にして仕事をしよう、ロシアを研究しようという人は、他の専門分野の知識を持つ人たち以上の勉強量が求められます。それに対して、教員の側も、各人の語学および地域研究の専攻分野に応じてそれぞれに創意工夫をこらし、日々努力しながら、全員が一致協力して教育にあたっています。

 教員のみならず、学生のみなさんも、40年以上にわたるロシア語学科の伝統の中に身を置いています。教員も学生も、ともに日々の努力とその成果が、そのままロシア語学科の将来を形づくることになるのです。そうした自覚を持って、いっしょにがんばりましょう。

2.過去の名物教授

 ロシア語学科には、過去に何人も、「名物教授」と言われる先生がいました。そのうちの何人かを紹介しておきましょう。

【ポツターヴィナ先生】
 ポツターヴィナ先生はロシア語学科草創期の名物教授中の名物教授ですが、残念ながら、ごく初期の卒業生以外は接した人がおらず、いまや「伝説の人」になっています。1922年、20歳のときに、著名な東洋語学者であった父親とともに朝鮮に渡り、その後ハルピン学院で教鞭をとりました。1955年に横浜へ移り、翌年から上智大学で教え、ロシア語学科初期の教授陣の中心的存在でした。染谷先生の文章によると、「大音声(だいおんじょう)で学生の心胆を寒からしめる」授業をされていたそうです。1969年に東京で亡くなられるまで、生涯をロシア語教育に捧げられました。

【染谷茂先生】
 『研究社露和辞典』の編者として知られる染谷茂先生は、長いあいだロシア語学科の大黒柱として、本学科の屋台骨を支えてこられました。戦前、ハルピン学院で教鞭をとられていた先生は、その後、シベリアに抑留され、10年以上の長きにわたってラーゲリ(捕虜収容所)生活を続けられました。帰国後は本学ロシア語学科の教員として、多くの教え子を育てました。ロシア語学科の卒業生で先生の影響を受けなかったものはいない、といってもよいほどです。先生の「十八番」はロシア文学の正確で精密な訳注ですが、1997年には待望久しかったソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィッチの1日』の訳注が、美顕プリンティングから刊行されました。2002年、惜しくも亡くなられましたが、その直前まで町田市のご自宅でロシア語の研究を続けておられました。

【小澤政雄先生】
 小澤政雄先生は、染谷茂先生とともに、本学科創設時からのスタッフの一人です。プーシキン研究家として、長く文学講読や文学演習といった科目を受け持たれ、古き良き時代の文学の香りを漂わせておられました。鴎外や荷風のむこうをはったともいえる訳詩集『露滴集』は、専門家のあいだでも高い評価を受けました。1996年に長年のプ−シキン研究の結晶ともいえる『エヴゲーニー・オネーギン』の翻訳を群像社から刊行されましたが、その直後、惜しくも亡くなられました。

【内藤操(内村剛介)先生】
 内村剛介のペン・ネームで有名な内藤操先生は、ハルピン学院時代の染谷先生の教え子で、やはり長くラーゲリ生活を続けられました。帰国後は一時商社に勤めた後、北海道大学に勤務されていましたが、1978年に本学ロシア語学科に移られました。戦後の流行語のひとつにもなった「生き急ぐ」は、先生がその著作の表題として初めて使われた言葉です。ラーゲリで鍛えたその強靭な肉体は今も健在で、時々本学を訪れては、得意の早口で、後輩をシッタ激励されています。