言語社会学

泉 邦寿



ことばはそれ自体の内部構造の側面から、そしてそれを使用する人間の知的な活動との関わりの面から多く考察されていますが、ことばが社会的な存在であることも大切な一面です。このような観点からことばを見ていくというのはどのようなことなのでしょうか。

一つはすでにその例を「ことばのゆらぎ」で見たように、ことばの形が外部の現象とどのような関係があるかを調べることで、それは社会言語学という分野が扱います。しかし、さらにもっと社会制度の側からことばが問題になることがあります。それが言語社会学の対象となる現象です。たとえば、日本ではなんの疑問も抱かれずに使われている「国語」という用語はまさにこうした分野の概念です。ヨーロッパの国ルクセンブルグでは国語はルクセンブルグ語ですが、公用語としてはルクセンブルグ語のほかにフランス語、ドイツ語も使われています。日本でオリンピックが開かれたのは最近のことですが、そのとき英語とともにフランス語がよく聞かれましたが、なぜなのでしょうか。それはフランス語がオリンピックの公用語であるからなのです。そのとき長野新幹線のなかでもフランス語の案内が使われていたのに気がついた方も多いと思います。さて、ここで国語と公用語はどう違うのかちょっと考えてみてください。

このように社会生活の中でのことばはまさに社会的な重要な役割をいろいろと果たしているのですが、このようなことを正面からとりあげるのは言語社会学なのです。


多言語のために

今、日本には多くの外国人が働きにきています。これはかつての日本では考えられなかったことです。日本のつつうらうらで日本語を母語としない人たちが多く働いています。母語と書きましたが、これはよく母国語と言われてます。しかしながら、母国語という用語については不正確な使い方がなされていることが多いようです。基本的に言語ははじめから国と結びついたものではありません。母語というのは生まれてからその言語で育ち、それを身につけた場合にその言語を言うのです。たとえば、フランス人であっても、生まれた時から両親が話している言語はフランス語ではなく、アラビア語で、それをまず身につけた場合には、その人にとっての母語はアラビア語ということになります。しかし、一方、フランスの国語はフランス語です。したがって、この子は幼稚園、学校を通じてフランス語で学び、さまざまな活動を通じてフランス語を修得していき、二言語併用(bilingual)となっていきます。すなわち、家族ではアラビア語、友達や先生と話すときや授業はフランス語でということになるわけです。

母国語という用語には、国とことばとが一体であることが前提として含まれています。とくに、国語という概念で、あることばが規定されいる場合にはそれが顕著です。ところで、国語という概念は基本的には政治的なものです。フランスを例にとればいわゆるフランス語をのぞいて、古くから使われてきた言語は7つ以上あります。たとえば、オック語、バスク語、ブルトン語、アルザス語、コルシカ語、カタルーニャ語、フラマン語などがそれですが、そのほかにも移民の人々の間ではアラビア語、ヘブライ語、ベトナム語、中国語をはじめ多くの言語が使われています。しかし、これらの言語は公的な機関では使うことができません。たとえば、出生届を出すときにはフランス語しか認められないのです。教育も基本的にはフランス語によってなされなくてはなりません。

こうしたフランスですが、おもしろいことに、憲法に言語の規定を入れたのはつい最近のことなのです。しかし、実質的に国語であったといっても過言ではありません。日本国憲法にも言語の規定はありませんね。しかし、インドネシアやスイスのような多言語の国では国語ないしは公用語の規定が憲法の中にあります。日本やフランスでは日本語やフランス語を使うことが政治・社会的に疑問をもたれないほど当たり前のこととされてきたと言ってもいいでしょう。先に述べたフランスでの憲法改正はEUの統合に伴ってなされた一連の改正の一部としてなされたことなのです。

現代世界には二つの傾向が見られます。つまり、ひとつは統合の動き、たとえば、欧州連合EU のような例がそれです。そのような場合に言語の問題はどのような形で関係してくるのでしょうか。経済・政治的な統合の動きはさまざまな面で人々の生活に直接関係してきますが、言語の問題にも当然関係してきます。現在のEUの加盟国は15カ国ですが、公用語は11言語です。EUは基本的に多文化・多言語主義をとっていますが、構成している国とその地域の多様さこそがヨーロッパの豊かさであり、経済的な効率だけによって画一化してされてしまうことを避けようとする現れなのです。従って、たとえば欧州議会や欧州委員会、欧州裁判所その他の機関での使用言語をたとえば英語だけにしてしまうようなことはとうてい考えられないことなのです。

フランスの憲法に言語条項が入れられたのもこれと無関係ではありません。これは一見矛盾するようですが、その後に作られたフランス語使用法という法律も含めて、世界レベルでの言語の画一化から自国を守るためという意味も含まれていたようです。もっとも、自国内の多言語の許容という点では矛盾を含んでいることにもなりますが。

さて、もう一つの傾向は分裂でしょう。旧ソ連やユーゴの解体はその典型ですが、そこでも言語の問題が出てきます。たとえば、旧ソ連のエストニアでは国語をエストニア語とし、エストニア語の能力があることを国籍を取得することができる条件としました。それによって、ロシア語しかできない人は排除されることになります。

こうした問題は言語政策といわれる分野に入りますが、以上のような国々でなくとも言語政策はさまざまな形で関係してきます。国のレベルでは交通標識や駅の案内は何語にするか、民間のレベルでは、たとえば商品の標識は何語にするか(日本で作られ売られている多くの電気器具は英語の表示ですね)、大学ならば外国語教育は何語を提供しどのようなカリキュラムを組むかなど、さまざまな問題が関わってきます。広くは人々の言語意識の問題も関係します。言語社会学ではこうした問題を扱うのです。


ことばと社会

一つの社会の中での年齢、性別、階層、職業などによる言語の相違をはじめとして、具体的な場面でのことばのバラエティとその中からの選択は言語社会学の対象であるとともに社会言語学の対象でもあります。一つの例を見ましょう。

たとえば、田中さんの一日を考えてみましょう。この家族の間ではどのようにお互いを呼び合っているのでしょうか。田中さんは奥さんのことを「洋子」と呼んでいますが、奥さんの方は田中さんを「あなた」と呼んでいます。でも、子供の前ですとお互いに「ママ」、「パパ」と呼ぶことがふつうです。そのうえ、子供の前でなくとも最近では「ママ」、「パパ」とお互いを呼ぶこともあります。しかし、他人の前ではそのようなことはありません。また、田中さんはふつう自分のことは奥さんに「僕」ということが多いのですが、酔っぱらったりすると「俺」とも言います。子供に対しては自分を「パパ」と言っています。

田中さんは会社に勤めていますが、会社に行くとみんなから「課長」と呼ばれています。しかし、同期の同僚からは「田中」と言われます。部長からは「田中君」と呼ばれることが多いようです。田中さん自身は自分のことを部下や同期の同僚には「僕」と言っていますが、部長や取引先のお客さんには「私」と言っています。

このように自分のことを何と呼ぶかは相手や場所によって違ってきますし、相手を何と呼ぶかも同じような条件で変わってきます。それらの形はどのような原理で選ばれているのでしょうか。ここには言語外の社会的な要件が入っているわけです。

日本語の人称にはこうした社会的な要件が欠かすことのできないものとなっているのに対し、たとえば、英語では基本的に誰に対しても自分は「I」、相手は「YOU」です。また、親しくなるとファーストネームをすぐに言うようになりますが、日本では子供同士か家族あるいは若い女性同士でなければファーストネームはあまり言いませんね。

ことばにはこうした側面が多くありますが、これが言語外の広い意味での社会と関係があることはよくお分かりになると思います。このような問題は社会言語学と言語社会学が扱います。後者ではこうした現象が起こる社会的な原因に関心を持つと言えましょうし、前者はどのような形が言語にあり、それがどのような時に選ばれるかにとりわけ関心を持つといっていいでしょう。

 

参考文献

鈴木孝夫『ことばと文化』岩波新書、

鈴木孝夫『ことばと社会』中央公論社、

田中克彦『ことばと国家』岩波新書、

三浦信孝『多言語主義とはなにか』藤原書店、1997。

宮島 喬『ひとつのヨーロッパ いくつものヨーロッパ』東京大学出版会、1992年。

宮島喬・梶田孝道編『現代ヨーロッパの地域と国家』有信堂高文館、1988年。

梶田孝道『統合と分裂のヨーロッパ-EC・国家・民族-』岩波新書、1993年。

クルマス、フロリアン『言語と国家-言語計画ならびに言語政策の研究』(山下公子訳)、岩波書店、1987年。

クルマス、フロリアン『ことばの経済学』(諏訪功ほか訳)、大修館書店、1993年。