クレオール |
| 1.「言語接触」とは「人間接触」 |
「言語接触(Language Contact)」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか。読んで字の如く、複数の異なる言語が接触するということです。でも、よく考えて見るとわかりますが、接触しているのは言語そのものというよりは、異なる言語を話す人間です。「言語接触」というとき、それはすなわち「人間接触」であるという点をまず覚えておいてください。日本語と外国語の対訳本というものがありますが、日本語と外国語の活字が重なり合っても、普通それを「言語接触」が起こっているとは言いません。
異なる言語を話す2つの集団が接触するとき、一方の言語の単語が他方の言語に「借用」される現象はよく見られます。接触がさらに長続きし、その度合いが深まれば、単語が借入れられるだけでなく、発音や文法面での影響が及ぼされることもあります。そして、一方の言語の背景にある政治・経済・軍事あるいは文化的な力が圧倒的に優る場合、もう一方の言語の「死」がもたらされることもあるでしょう。そう、この世から1つの言語が姿を消してしまうのです。言語学者の立場から見ると残念ですが、21世紀のうちに地上から数多くの言語が消滅してしまう可能性は極めて高いといわれています。| 2.ピジンとは何か |
ところで、異なる言語を話す2つ以上の集団が接触するとき、無意識のプロセスを経て、接触に関与したどの言語とも相互理解が不可能な、それまで存在しなかった新しい言語が話しはじめられることがあるのです。それを「ピジン(pidgin)」と呼びます。日本人が俄仕立ての知識で口にしそうな英文「ユー・カム・ヒアー・ツモロー・オーケー・ネ」とか「ミー・ノー・グッド・ツデー・ヨ」などもピジンの一例といえるでしょう。もうおわかりのように、人類は歴史上常に接触を繰り返してきてますから、これまでピジンは様々な地域で数多く形成されているのです。つまり、ピジンには複数形pidginsがあることに注意してください。
確かに、正しい文法という観点から見れば、ピジンは「出来損ない」の言葉のように見えます。そもそもそこには「正しさ」に対する配慮などないのです。けれども、コミュニケーションの効率そして学びやすさという観点から見ると、ピジンは非常によく出来ています。なぜならピジンは何よりもまず意思の疎通のために形成されるわけですし、また多くの場合、文法は単純化しており、語彙も少ないのですから。 ここでピジンについて要点をまとめておきましょう。まず、ピジンは2つ以上の言語の接触から生まれる接触言語(Contact Language)であり、ネイティブ・スピーカーがいません。その語彙の大部分はある一つの言語から取られているのですが、接触に関与したどの言語とも相互理解が不可能です。そして、ピジンの文法は、それらの言語の文法と比べた場合、より単純であるのが普通です。ただし、ピジンといっても、実はその発展にはいくつかの段階があり、文法の規則も定まらず語彙も極めて少ないジャーゴン(jargon)という段階から、安定したピジン(stabilized pidgin)、そして、すでに普通の言語といっても差し支えないほど拡大したピジン(extended pidgin)という段階まであります。 ピジンの有名な例としては、18世紀から今世紀初頭まで、ノルウェー沖で操業するロシア人漁民とノルウェー人漁民の間で話されていたルソノースク語(Russenorsk)、17世紀から19世紀半ばまで中国南部で話されていたチャイニーズ・ピジン・イングリッシュ(Chinese Pidgin English)、南アフリカ共和国の金鉱山付近で現在も話されるファナカロ語(Fanakalo)などがあります。この最後のファナカロ語は、ヨーロッパの言語ではなく、ズールー語(Zulu)というアフリカの言語の語彙を多く持つピジンです。| 3.ピジンからクレオールへ |
さて、多くの場合ピジンはその有用性が失われると消滅してしまうのですが、状況により、ある集団の母語となることがあります。例えば、多言語社会で相互理解のためにリングア・フランカ(共通語)として使用されるようになったピジンが、その便利さ故に次の世代に母語として引き継がれるケースです。そのとき、つまりピジンがある集団の母語となったとき、それをクレオール(creole)と呼びます。すなわち、「クレオール=母語化したピジン」であり、ピジンが母語化することを「クレオール化(creolization)」といいます。
クレオールの主な特徴をまとめておくと、まずピジンと同じく、複数の言語の接触から形成される接触言語であるということです。先程ピジンには様々な段階があると言いましたが、初歩的な段階から急激にクレオールになることもあれば、安定化あるいは拡大化したピジンが何世代も経て漸進的にクレオールになることもあります。また、世界中のクレオールには、接触に関与した言語の違いに関わりなく、時制・法・アスペクトの表示法などいくつかの構造的な特徴が共通して見られ、現在数多くの研究者から注目されています。そして何よりも、クレオールはある集団の母語であるという事実、つまりその集団の生活の必要をすべて満たす普通の言語であるという点はしっかりと把握しておいてください。ですから、逆に言えば、ある言語がクレオールであるか否か判断するとき、その言語の形成に至るまでの歴史背景を知らなければならないのです。 ところで、ここで気になるのは、ピジンとクレオールの言語的な違いです。ジャーゴンと呼ばれる初期的ピジンとクレオールを比較する場合は簡単です。ジャーゴンには、発音・文法・語彙、あらゆる面で安定性が欠けていますし、言語として見れば不完全です。けれども、拡大ピジンとクレオールの比較となると話は難しくなり、研究者の意見も分かれます。拡大ピジンともなれば普通の言語と変わりませんから、言語の構造面から見れば、クレオールと全く同じように見えます。したがって、両者の間に違いはないとする学者もいます。しかし、発音・文法・語彙のそれぞれのレベルで、違いが見られると主張する研究者もいます。このテーマは今のところデータが少ないため結論は出せませんが、これから調査する価値があるでしょう。 現在、世界にピジンあるいはクレオールと見なし得る言語がいくつ話されるのか、その数は研究者によりバラ付きがありますが、だいたい100前後と見て良いようです。その中には、英語、フランス語、ポルトガル語、スペイン語、オランダ語の語彙を基にしたものが多く見られますが、アフリカ諸語の語彙に基づくもの、アメリカ・インディアン諸語の語彙に基づくものも存在します。ピジン・クレオールは、ヨーロッパ諸語と第三世界の諸言語との接触から生まれたものとは限らないのです。| 4.何故ピジン・クレオールを研究するのか |
ピジン・クレオールの研究は思いのほか長く、19世紀末には、ロマンス語学研究者として知られるフーゴ・シューハルト、あるいは南アフリカ共和国で話されるアフリカーンス語(Afrikaans)に関する独自の見解を提示したディルク・ヘスリングといった先駆者が現れています。けれども、本格的なスタートが切られたのは、やはり1960年代と言うべきでしょう。最初は、社会言語学者たちが言語の変異および変種に対する興味からピジン・クレオールに関心を寄せたのですが、80年代以降は、クレオールに言語の普遍性の具体化を見てとるデレク・ビッカートンとアフリカ諸語の影響を重視する研究者の間で熱い論争が起こり、ピジン・クレオールの専門家ではない言語学者からも注目を集めました。90年代に入ると、個別のピジン・クレオールに関する詳細なデータが増え、以前より議論に幅が広がり、深みも出てきました。
ピジン・クレオールという言語に対する関心は現在ますます世界中の言語学者の間で広がっています。どの言語も生きている限り、つまり話されている限り変化しています。私たちが話している日本語も日々変化しているのです。普段私たちはそうした変化に気がつくことは殆どありませんが、ピジン化・クレオール化は誰の目にもわかる急激かつ根源的な言語変化です。言語学は言語が何故どのように変化するのかに関心を持ちますから、多くの言語学者がピジン・クレオールに興味を示すのは当然です。 母語の獲得、第2言語の習得、どちらも現代言語学の重要な研究テーマです。その両分野にピジン・クレオールが深く関わることは、もう言うまでもないでしょう。ピジン化とは(不完全かもしれませんけれど)まさに第2言語の習得ですし、クレオル化とはピジンを母語として獲得することなのですから。ピジン・クレオールを研究してゆけば、必ずや「言語獲得」、「言語習得」に関する新しい知見が見出されるはずです。 すでに触れましたが、デレク・ビッカートンはクレオールに人間の言語の普遍性そしてルーツを見出そうとしました。彼にとり、人類の言語とは本来クレオールのような構造を持ち、さらに彼はそれまで誰も指摘できなかった具体的な普遍言語、言語のルーツを突き止めたと主張したのです。かなり過激な意見であり、批判も多かったのですが、議論の材料を提供したという意味でも、言語研究に大きな貢献を果たしたと言ってよいと思われます。 ピジン・クレオール研究はまだ新しい分野です。しかし、だからこそ、これから開拓すべき領域がたくさん残されているのです。言語接触、言語変化、言語習得と獲得、言語普遍に関心のある方は是非ともピジン・クレオール研究の持つ豊かな可能性を信じて、文献を紐解いて見てください。必ずや言語研究に新しいヒントを与えてくれるはずです。| 5.基本文献の紹介 |
|
Holm, John. (1988) Pidgins and Creoles. Vol.1., Theory and Structure. Cambridge University Press Holm, John. (1989) Pidgins and Creoles. Vol.2., Refernce Survey. Cambridge University Press | |
| 全体で700頁を越える大著。全て読み通すに越したことはありませんが、事典として使ってもよいでしょう。 |
| Sebba, Mark. (1997) Contact Languages: Pidgins and Creoles. Macmillan Press | |
| 最新の入門書。ピジン、クレオールの具体例、練習問題が数多くついています。 |
| Thomason, Sarah G. & Kaufman, Terrence. (1988) Language Contact, Creolization, and Genetic Linguistics. University of California Press | |
| ピジン・クレオール以外の接触言語まで広く扱った基本的文献。数多くのケース・スタディーが参考になります。 |