歴史言語学
のすすめ
菅田 茂昭



歴史言語学は、言語が時間の推移とともにどのように変化するかを研究テーマとします。まず言語の変化とは何か、次にどんな研究方法があるかを知り、変化することも人間言語の特質のひとつとして捉えることが必要でしょう

私たちは毎日コミュニケーションの手段として言語を用いていますが、言語はそれを使っている人の立場からは、社会的あるいは地域的な違いには気付いたとしても、変化しているようにはみえません。コミュニケーションが成立するためには話し手と聞き手との間に共通するコードが必要であり、個人が勝手に言語を変えることはできないからです。しかし時間をへだてて、たとえば現在使っている言語を、もし古い過去の記録があれば、それと較べてみると、おそらくそこには多くの差異がみられ、言語が変化したことが分かるはずです。言語にはこのように集団ごとに共通のコードを維持しようとする力が働いている反面、時間をへだてて眺めるとそれを変える力も潜んでいると考えられます。近代言語学の父といわれるソシュールは、この相反する二つの力を言語の不易性と可易性と呼んでいます。

言語研究のために、記号の恣意性をとくに重視しているのもソシュールです。言語記号は、シニフィアン(表わすもの)とシニフィエ(表わされるもの[=意味])が一葉の紙片の裏表のように結合してできており、両者の間には必然的な関係はないというものです。諸言語の間に差異のあることが、いや多言語の存在そのものがその証拠とされます。「犬」がスペイン語でperroと呼ばれ、フランス語ではchienとなるのは、単に受け継いだ習慣(制度)の違いにすぎません。この習慣を私たちは自由に変えることはできませんが、記号に恣意性があるからこそ時間の流れに沿って変化することは可能なのです。

言語の変化というと、すぐに音の変化(たとえばラテン語CANEM→フランス語chien「犬」、古英語hwa[hwa:]→英語who[hu:]「誰」)、あるいは意味の変化(たとえばサカナ「酒菜」→「魚」、古英語mete「食べ物」→英語meat「食用肉」)のことなどが思い浮かびますが、このような変化は、音の側に起こる変化であれ、意味の側に起こる変化であれ、あるいはその両側に起こる変化であれ、結局はシニフィアンとシニフィエとの間にズレをもたらします。このズレこそがまさに言語変化であるということができます。しかもそれは記号に恣意性があることからの帰結なのです。

ソシュールは、言語が社会集団の分銅に結びつけられているばかりでなく、時間のなかに置かれているからこそ(過去とのくされ縁のため)、記号の恣意性が固定される反面、記号に恣意的特性があるおかげで時間を通じて進化することを、「時間は万物を変遷せしめる。言語がこの普遍的法則を免れる理由はないのである。」(小林英夫訳)と述べています。そして言語が社会のみでなく時間とも結びついた存在であることを次のような図で示しています。

 

さて、こんにち私たちが学んでいる言語学も、その起こりは実は歴史言語学からなのです。F.ボップがサンスクリット語の動詞変化をギリシァ語、ラテン語、ペルシァ語、ゲルマン語のものと比較した1816年からとされています。「比較文法」と呼ばれるようになったこの方法は、すでに法律家であったW.ジョーンズが、1786年サンスクリット語はギリシァ語やラテン語と偶然とは考えられないほど類似しており、三者はおそらくもはや存在しない「ある共通の源から」発したものであろうと推定していたことから伺えるように、任意の言語を比較して一般的法則を求めようとするのではなく、同じ系統に属する諸言語を比較してそれらが共通の祖語(印欧語の場合は再建される)からどのようにして分化したかを解明しようとするものです。ラテン語を親とするロマンス諸言語の誕生はそのモデルとなりました。グリムの法則、シュライハーの印欧語系統樹説、これに対するシュミットの波動説を経て、ブルークマンを中心とする青年文法学派に受継がれ、今世紀はじめソシュールが共時言語学と通時言語学を峻別するまで、言語学とは比較文法を主要な方法論とする歴史言語学のことでした。当時人びとの関心が空間的、時間的に拡がりをみせるなかで、ダーウィンの進化論の影響も否定できません。地球上になぜこれほど多数の言語が存在するのかという、バベルの塔の仮説いらい未解決な疑問に、系統論的に改めて取組もうとしたものといえましょう。

この意味ではグリムの法則の果たした役割ははかり知れません。それは言語を歴史的な存在として捉え、ゲルマン語の子音の歴史的推移を、音の対応の形式で規則化したものでした。たとえば、印欧語の無声閉鎖音p,t,kがギリシァ語やラテン語ではそのまま残るが、ゲルマン語ではそれぞれ摩擦音f, ,hに変化しているというものです。ラテン語pater「父」(こんにちのフランス語ではp re)が、ゴート語fadar(cf.英語father,ドイツ語Vater)に対応し、ギリシァ語kard a、ラテン語cor「心」(こんにちのイタリア語ではcuore)が、ゴート語ha rto(cf.英語heart、ドイツ語Herz)に対応するといった具合です。なお、こんにちのドイツ語に至るには第2次子音推移も学ばねばなりませんが、このような知識を得ておけば、ヨーロッパを旅しながらゲルマン語とロマンス語の切り替えにすぐに役立つはずです。なお、ここで言語の変化は、のちに法則と呼ばれることがあっても、ある時期にある地域でまとまって起こった現象にすぎず、自然科学のように予測性をともなうものではないことに注目しておきましょう。

ところで言語学の他の分野でも、音や意味を区別するには一種の比較が出発点となりますが、歴史言語学では、ことに比較するという作業が重要な意味をもっています。比較文法でいう比較のほか、英語史、あるいは仏語史のように個別言語の歴史もその時代をへだてた比較にもとづいているからです。さらに言語は単独に存在しているわけではなく、系統に関係なく別の言語との接触があり、そのような言語とも比較して借用関係などを調べる必要も起こります。またシュミットの波動説(これは本来印欧語の近親関係を空間的にとらえたものでした)が説いているように、隣接する諸言語の間で言語の伝播の過程が課題となれば、言語地理学に発展することでしょう。

歴史言語学というと、これまで比較文法が伝統的に大きな地位を占めてきたのは事実ですが、本来は個々の言語の歴史を音、文法、語彙などのレベルで調査することから出発し、言語変化の一般的な傾向を把握するという態度を見失ってはなりません。いくつかの例をあげますと、音に関しては、同化(日本語のサ行やタ行音にもみられる口蓋化など)や異化といった現象があります。文法ではロマンス語のように冠詞の誕生、格変化の消失などとの出合いがあり、語彙のレベルでは絶えずその新陳代謝がおこなわれています。最近注目されているテーマに「文法化」があります。語彙素が文法的な形態素に変化することで、多くのロマンス語で用いられる副詞の語尾−ment(e)が、ラテン語のmens「心」の奪格に由来していたり、スペイン語の未来形cantar 「私は歌うでしょう」の活用語尾が、ラテン語の動詞habeo「私は持つ」にさかのぼるものであるなど興味をそそられる現象が待っています。

さいごに、言語の歴史を学ぶことで、言語それ自体を見つめ直す機会が与えられますよう期待しています。



文献案内

これから歴史言語学を学ぼうとする人のために、まず日本語(翻訳を含む)で書かれた参考書として次のものを選んでおきましょう。

池上二良編『言語の変化』[講座言語・第2巻]大修館1980。
編者による概説にはじまり、音の変化、文法の変化など幅広い各論のあと、生成文法からの解明をも加えた点が注目されます。


高津春繁『比較言語学入門』岩波書店1992(初版1950)。
比較言語学の方法を日本語で述べた古典です。この新版には解説(風間喜代三)が付いています。


風間喜代三『言語学の誕生』岩波書店1978。
19世紀における、印欧語比較文法の発達とその背景を知るために、あるいは言語学の誕生自体に触れることのできる有益な参考書です。


A.メイエ、泉井久之助(訳)『歴史言語学における比較の方法』みすず書房1977( 原著はLa m thode comparative en linguistique historique, Oslo.1925)。
著名な印欧語学者が比較言語学の方法について講演したものですが、ロマンス語からも多くの例が引かれ、基本文献のひとつといえます。


H.パウル、福本喜之助(訳)『言語史原理』講談社1976(初版1965)。
19世紀の歴史言語学の成果をまとめた古典です。


L.ブルームフィールド、三宅・日野(訳)『言語』[第17−27章]大修館1970。
第17−27章は歴史言語学へのオーソドックスな入門書としてこんにちでも有効です。


F.ド・ソシュール、小林英夫(訳)『一般言語学講義』[第3編 通時言語学]岩波書店1992。
この第3編で歴史言語学の原理を探ることができます。


次に英語で書かれたものから2点を紹介しておきます。

Th.Bynon,Historical Linguistics, Cambridge University Press, Cambridge, 1977
歴史言語学のテキストとして初版いらい定評のあるものです。主要な方法論をとりあげています。


R.L.Trask,Historical Linguistics, Arnold, London 1996
歴史言語学のあらゆるテーマ(印欧語を含むノストラース語族、消滅した言語などにも及ぶ)を提供する最新のテキスト(練習問題付)です。


このほか各種の言語学辞典および個別言語史の利用もおすすめします。なお、さらに詳しい参考書については以上の文献のなかにあるBibliographyが役立つことでしょう。