言語研究の
すすめ

泉 邦寿


はじめに

みなさんは、自分がふだん当たり前のように用いていることばを意識したのはいつのことか、覚えていますか。小学校の国語の授業だったでしょうか、それとも中学で始まった外国語の授業でしょうか。コケコッコーと鳴く鶏の鳴き声が英語ではkuck-a-doodle-dooなのだと知ったとき、鳴き声は同じ鶏なのに、その鳴き方をことばで表現すると違うのはなぜだろう、というような素朴な疑問をもたなかったでしょうか。

あるいは海外旅行に行って、いつもふつうに通じていた日本語が通じなくなってしまったときや、国境を越えるたびにことばが違うという現実に出会っときに、ことばというものの存在に目を見開かれる思いをした経験をお持ちの方もあるかもしれません。

最近開催された長野オリンピックのときには、さまざまな言語が聞こえてきましたが、今、日本ではオリンピックでなくともいろいろなことばを耳にする機会が多くなってきています。そんなとき、世界には本当にいろいろなことばがあるのだなと実感することがあるでしょう。

また、いくつかのことばを流ちょうに使える人も多くなっています。そんな人に出会ったとき、どうしてそんなことができるのだろうかといった素朴な疑問をもったことはありませんか。そして、子供のときには外国語も簡単に話せるようになるのはなぜだろうと思ったことはありませんか。

さらに、不幸にしてことばを失ってしまったり、障害をもつようになった方々のことばの回復はどのようにしたら可能なのかを考えたいと思ったことはありませんか。

ことばに関して、不思議だなとか、なぜだろうとか、こうなりたい、こうしてあげたいといったみなさんの素朴な疑問や願いの中には、実は大きな発見につながる大切な宝がかくされているのです。

さあ、人間のいとなみの中でもとても重要な役割を持つ「ことば」というものはどのようなものなのか、一緒に考えてみようではありませんか。

言語研究の目的

ことばは人間と切り離すことができない存在であることはだれにでも分かっています。ことばのない生活をちょっと考えてみてください。とたんに困るということは実感として分かるでしょうが、家族や友達とのコミュニケーションができなくなるというレベルのことだけではなく、現在のような社会生活はとうてい成り立ちませんし、これまでの人類の文明自体も成立しなかったでしょう。

私たちの生活はお互いのコミュニケーションを通じて営まれますが、その手段としてはさまざまなものがあります。しかし、その中でもとりわけことばの果たす役割は他のものに比べて格段に重要なものです。家族、学校、社会において、口頭で、あるいは文書を用いて情報をやりとりするのは、人間のいとなみの上でもっとも基本的なことです。そして、人類がことばというものをもつようになってからの発達は、それまでの段階とは質的な違いがあるといってよいのです。これによって、人類は現代までのさまざまな文明を生み出してきたと言っても過言ではありません。

また、ことばはコミュニケーションの手段という役割だけをはたしているものでもありません。ことばはものごとを把握し、理解し、意味づけ、秩序だてるために欠かせないものです。まさに、文明を生み出し、発達させてきたのもこの働きによると言ってもいいのです。

ことばはまた他の制度と同じような役割を社会的なレベルで果たしています。仲間や仕事場で共通に使われることば、地域や共同体のことば、また、公用語、国語などというさまざまなあり方をご存じでしょうが、これらはまさに社会的な機能の一環としてのことばということになります。

人間の営みにとって根本的な役割を果たしていることばを研究する必要は自ずとおわかりになるでしょう。

さて、このようなことばの研究の中心になる学問は言語学といわれるものですが、それだけではなく様々な学問領域もことばの研究に欠かすことができません。この「言語研究のすすめ」は、狭い意味での言語学に限らず、広く言語を研究するという立場からの案内で、言語がいかに学問領域を越えた対象となるか、そしてその研究にはいわゆる学際的な研究が必要かを理解してもらうためにも作られています。みなさんの勉強をすすめるために有効に使ってください。

言語学の諸分野

ことばを研究するにはさまざまな学問が関係してきますが、その中心になるのは言語学と言われる学問です。では、現代の言語学はどのような問題を取り扱うのでしょうか。少しばかり見ておきましょう。

ことばの基本的な形はまず音と意味から成り立っていまね。日本語の「ラッパ」という語を考えてみましょう。ここでは、[ラッパ]という音に<らっぱ>という意味が結びついているといっていいわけです。音の面では、最初の「ら」の音を英語のl の音のように発音する人もいるでしょうし、巻き舌のr(いわゆる江戸っ子のべらんめー調)のように発音する人もいるでしょう。ふつうにはそんなに巻き舌ではないし、l でもないという感じでしょう。こうした発音の違いは世代や地域等によって異なります。ことばの音的な側面を扱う分野は音声学という分野です。

しかし、上のどの音で実際発音されようとも、それを聞いて理解する人は同じ「ラッパ」ととらえるでしょう。これはなぜなのでしょうか。それに対し、似たような音ですが、しょこ(書庫)とそこ(底)ではちがいますね。なぜこれは違うと認めるのでしょうか。アクセントのちがいもありますが、それだけではありません。音が違うと言うでしょう。この場合の音の違いは意味を違えるという基準で選ばれています。物理的には先ほどの「ラッパ」だって音は違っているのですが、言語の音は意味との関わりで考える必要があるわけなのです。そのような分野は音韻論といわれています。

さて、私達は話したり書いたりするとき、文を作っているわけですが、文はでたらめに単語が並んでいるわけではありません。たとえば「木村君は先月インドを旅してきました」という文を「はインドきました旅して先月を木村君」としたらどうでしょう。これではなんのことやらさっぱり分かりません。文はそれを構成する要素を何らかの規則に従って組み立てて成り立っています。それはなかなか複雑な規則で、各言語に固有なものがあると同時に、それを超えた人間の言語に共通する規則である側面もあります。そうした分野全般は統語論といわれる分野です。

みなさんは「木にのぼる」と言うでしょう。でも、「木にあがる」とはあまり言いませんね。しかし、「屋根にあがる」と言う方がふつうです。煙はのぼり、花火はあがります。「のぼる」と「あがる」は両方とも上への移動を意味しますが、どこが違うのでしょうか。

「なまじ英語ができるばかりに、重宝に使われてこまる」という文の意味はおわかりでしょう。ところで、この文から「なまじ」をとって「英語ができるので、重宝に使われて困る」としてもほぼ同じ意味の文ですが、でもどこかちがいます。一体どこが違うのでしょうか。これは「なまじ英語ができるので、みんなからうらやましがられている」という文がおかしい理由と無関係ではありません。

こうしたことばの意味の問題を扱うのは意味論という分野です。さらに、怒ったときに「なにいってるんだ!」と言うことがありますが、この文の本当の意味は「そんなことは言うな」ということですし、「ばか言え!」などと言っても別に「ばかなことを言ってくれ」という意味ではありません。つまり、実際の会話ではことばどおりの意味でない意味で使われる文というのが非常に多いのですが、それはどのような仕組みになっているのでしょうか。こういうことは語用論といわれる分野で扱われます。

言語学の基本的はこのようないくつかの分野に分かれています。

言語学の流れを見る

ことばについては昔から多くの関心が寄せられていました。古代ギリシアの哲学者たち、中世ヨーロッパのスコラ哲学の学者たち、古代中国の思想家たち、日本では日本の国学者たちがさまざまな議論をしてきました。古代インドでは当時の言語であるサンスクリットについて、現代の目から見てもかなり厳密なものと評価される文法記述が行われていました。しかしながら、近代的な意味での客観的な言語研究は、19世紀ドイツに端を発し、その後ヨーロッパで盛んになった比較言語学から始まるといっていいでしょう。

比較言語学といってもまちがってはいけません。たんにいくつかの言語を比較する、たとえば英語と日本語を比較するというようなことではないのです。(ちなみに、こういうことを目的とするのは対照言語学といいます。)源を同じくする言語、つま同系の言語を比較しながらその元はなにか、そしてどのように変化して今のような言語となって来たのか、またほかにどのような言語が同系になるのか、そしてこうした歴史的な変化はなぜに起こるのか、そしてそこに一貫した法則性があるのかなどを研究します。これはもともと文献的にも一番多くの確実なデータが残されてきた言語の研究から始まりました。現代のフランス語・イタリア語・スペイン語・ポルトガル語・ルーマニア語などは大変似ています。そして、これらには古い資料が数多く残されていますし、その源であったラテン語についても資料がたくさん残っています。それで、これらの言語の系統が明らかになり、まとめてロマンス語といわれるようになったわけです。その後こうした考え方がいろいろな言語に適用され、その成果として、たとえば、インド・ヨーロッパ語族といった語族とその発展が分かってきましたし、その他の言語の系統論的な分類が進んできたわけです。

ところが、歴史的な言語の発達を見ることとは別に、今の言語の内部構造や全体のシステムがどのようになっているかを研究することが重要であると言い出した人たちがいました。これは後に構造言語学とか構造主義とかいわれる考え方をもった人たちで、ヨーロッパではスイスの言語学者ソシュールが代表とされています。そして、その後のアメリカ構造言語学の人たちはさらに客観的な科学性を重んじ、言語そのものを人間のもっている認知的な能力とは切り離し、独立した枠内で形式化することを追求して、その厳密な構造を明らかにしようとしました。以前から哲学者がもっていた興味、つまり人間の思考と言語の関係などはいちおう排除して、形式面から構造を明らかにしていこうとする傾向が非常に強くなったのです。そこで、形となって現れている音の面、単語や文法的な形といった部門についてはかなりの成果があがりました。しかし、それはある意味で、言語と人間の関係を考慮したものではなく、言語が一人歩きしているような形で扱われてきたと後に批判されることにもなったわけです。

そこにアメリカの言語学者チョムスキーが登場します。彼が一番問題としたのは、子供がどんな状況においても、たとえば日本語の環境におかれれば日本語を話すようになるし、英語の環境におかれれば英語を話すようになるという、子供のもっている言語能力についてで、どうしてそういうことが起こりうるかに注目したのです。昔から人間の一番本質的なものとして考えられてきた言語の能力というものにチョムスキーはもう一度光をあて、母語(母国語という用語は避ける必要があります。くわしくは、言語社会学のところをごらんください。)を話す人の言語能力をどのように形式化して明らかにできるかを問題にしたのです。それによって言語習得の謎を明らかにしたいという一面と、もう一つは、それまでの構造言語学で記述されてきたような、個々の言語がもっている文法を越えた、人間一般についての普遍的な文法を追求しようとしたわけです。

チョムスキーの仮説は、こうした普遍文法はたぶん単純なものであろうと考え、その構造と子供の言語習得の謎とは必ず結びつけられるというものです。つまり、子供がどんな環境におかれてもそこの言語を話すようになるというのは、その前に個々の言語を越えた生得的な能力ともいえる何かがあるからで、それによって子供は個々の言語の文法を発見していくのだとすれば説明がつくと考えました。そして、個々の言語のあり方を細かく研究するとともに、それを越えた普遍文法を求め、それがすべての人間がもっている言語能力を明らかにするであろうと考えたのです。

生成文法は方法の上でもそれまでの構造言語学とかなり違う面があります。構造言語学はできあがった言語を分析して整理するという考え方だけですが、チョムスキーの考え方は、実際に出てくることばは人間のもっている能力の一部でしかないから、そのでき上がったデータをいくら調べても基になっている言語の構造は明らかにならないというものです。そこで、チョムスキーは、どういうものが文法的であって、どういうものが文法的でないか、また、どうして非文法的なものとしての判断がつくのか、そのからくりこそがまさに文法の仕組みだというのです。ありとあらゆるデータを調べた上で、一つのモデルを作るのではなく、一部のデータを基にしてモデルを作り、それによって人間が生み出す言語すべてが説明できるという、そういうモデルを探求しようという演繹的な考え方の理論です。

こうして、とくにシンタクスの面でチョムスキーの生成文法はたいへんな成果を上げてきました。

ところで、現在は認知言語学といわれる言語学も盛んになって来ています。その中心的なテーマは人間の認知活動とことば、それもとりわけ意味との関係です。

さて、このところ言語理論の中で非常に注目されていることの一つに、曖昧さの問題があります。言語学の歴史からいうと、この曖昧さの問題は昔から議論されてきたわけですが、ある時期、言語学の中心的なテーマにはなり得ませんでした。いってみれば、すべてを単純に機械処理できるような形に分析し、統合していくことを言語学の理想の形が思われていました。ところが、最近の言語学では逆に曖昧さとか揺らぎであるとか、いわゆるファジー的な面を積極的に考えていこうとする傾向が非常に強くなっています。認知意味論、認知言語学といわれるものにそれが特に見られます。

ことばの意味にはこうしてまた新しい光が当てられてきています。

意味の研究の新しい展開

意味はことばにとって本質的なものですが、構造言語学、とりわけ厳密な科学性、実証性、客観性を非常に重んじるアメリカ構造言語学では、あいまいな、非科学的になりやすいものとして正面から研究することが避けられてきました。しかし、チョムスキーが登場し、再び意味は重要なものとして取り上げられるようになりました。ただ、実際の言語使用や意味からは独立した部門としての統語部門を中心として形式化を行っているので、言語による概念化と意味との関係や、文字どおりの意味ではない使い方の意味の仕組みといった、人間の言語運用の問題については中心的なものとはなっていません。しかし、現在、とりわけ認知言語学といわれる考え方では、チョムスキーがあまり問題とはしなかったような意味の問題がかなり脚光を浴びてきています。

認知言語学で取り上げられているのは、構造言語学の初期にソシュールたちが取り上げてきたような問題、また、それ以前からの問題です。言語によって外界のものごとが概念化されていくときに、外界と言語との間はまったく関係がない、つまり恣意的だと構造言語学では言っていたわけです。ところが、認知言語学においては、そうむげに無関係とはいえないのではないか、言語外の認知活動による一つの仕組みがあって、それを媒介に外界とことばの意味との問題はつながっているのではないか、という見解が登場してくるのです。

たとえば、言語で外界をとらえるときには身体性が非常に問題になります。たとえば、人間は直立し、顔が前に向いていて目がついていて、見える部分と見えない部分がありますし、頭が上にあって、脚が下についている、そうした位置・角度から外界を見ています。ですから、上であるとか、下、右、左といった、外界を区分けして言語化する場合ことは、形こそ異なりますが、どこの言語にも共通して存在しています。各言語によって外界を概念化するときには共通した部門がかなり多くあるのです。そういう観点からことばの意味が概念化という問題と関係づけて考えられるのは当然のことなのです。

言語は意味と音との合わさった記号である、とソシュールはとらえたわけですが、私たちはその記号で概念化を行って外界のものごとを一つのカテゴリーにまとめているわけです。言語記号の基本的な意味作用というのはこうしたカテゴリーを作る作用、つまりカテゴリー化と言っていいわけです。この場合、記号の一つ一つにははっきりと区切りがある、ことばを換えれば、分節されている、離散的であることが従来強調されてきました。その結果、意味も離散的で、カテゴリー化のあり方は必要十分条件を満たす特徴の束としてきっちりとらえられました。そうすると、たとえば「つぼ」「かめ」「はち」といった概念には、なにかはっきりとした区別があるようになるのですが、実際にはこれらは連続していて、どちらのカテゴリーに入るのか分からないといった場合もあるわけです。そうすると、「つぼ」なら「つぼ」の意味規定というのも、a, b, c, d, e, ...といった条件をすべて満たしていなければならない、というような必要十分条件によらずともよくなります。その多くを満たしていれば典型的なもの、プロトタイプとなるが、そのすべてを満たしていなくても「つぼ」のカテゴリーには入るし、あるいは、場合によっては「かめ」の方にも入りうる、という柔軟な考え方の方が正しいのではないかということになるわけです。認知意味論ではプロトタイプといった考え方を入れて、かえってこうした曖昧さをことばの本質的なものととらえ、その仕組みを説明しようとしています。

もう一つ、意味についてですが、チョムスキーがとらえていた生成文法では人間のもっている言語能力を非常に問題にして、それがどのように発揮されて具体的に使われるかという言語運用の問題は脇におかれました。しかし、その脇に置いている問題がかえって言語の本質そのものにつながるのではないか、という考え方をかなりの人たちがするようになりました。そこで意味論から語用論が着目されてきたわけです。 語用論をふたたび簡単に説明しますと、日頃私たちはことばを文字どおりの意味を超えて使っています。たとえば、大学の廊下で学生が騒いでいて授業ができないときに、いろいろな言い方が可能ですが、まず直接的に「うるさい、しゃべるのをやめなさい。」と言えます。これは文字どおりの意味です。それ以外に私たちはふつうに言語で表現するときには、「今授業中だ。」とも言います。それは文字どおりの授業中であるということを相手に伝えているのではなくて、「うるさいから黙ってくれ」ということを伝えたいのです。それが一種の推論で理解されるわけですが、そこの仕組みがどうなっているのか、文字どおりの意味を超えたレベルでの意味解釈がどうのようになされていて、そこにはどんな規則があり得るかということが語用論の中心的なテーマになっています。こういう言語現象は、ふつうに考えられているよりも、日常言語の中では大きな部分、非常に重要な部分を占めているのです。

また、これまでの意味論、とくにチョムスキー達までの意味論では、客観的な真理条件を要因とした意味論が中心だったと言えるでしょう。しかし、今はかなり主観的といいますか、表現主体とのかかわりにおける意味といったものが問題になってきていて、単なる真理条件だけで意味が決まるものではないと主張されています。たとえば、坂を表現する場合でも、私たちは単に坂というだけでなく、「上り坂」「下り坂」といった表現をします。それは、表現主体が坂を上の方から見ているか、下の方から見ているか、という異なった立場から対象をとらえて表現しているわけです。

コップに水が半分入っている場合も、まだ半分ある、という表現もあれば、もう半分しかない、という表現もあります。コップに水が半分入っているという事実を伝えるだけでなくて、表現主体が事態をどうとらえているか、それが非常に関わってくるわけです。自然言語ではかえってこのような側面が重要なものとなっているのです。

さらには、人はあることばを発するときに、誰が、誰に、いつ、どこで、何について話すのか、といった言語外の要因によって、どのような言語の形をとるかを無意識に、あるいは意識的に選んでいます。実際に使われることばはこのような条件にかなり支配されています。たとえば、ある男性は会社で目上には「私はこれから外回りに出かけてまいります。」と言うでしょうが、家では子供に「パパはこれからお出かけしてくるから、ボクはお留守番しててね。」のように言う可能性があります。もちろんここの「パパ」は「私」のことですし、「ボク」は相手=子供のことです。こうしたことがまさに生きたことばの姿で、まさに語用論や社会言語学が得意とするところなのです。

隣接の学問との関係

上にも述べてきたように、ことばの研究の中心となる学問領域は言語学ですが、それだけで言語の研究が成り立つわけではありません。ことばが社会的なものであるところに注目すれば、そこには社会学との関連が出てきます。そのような領域は言語社会学といわれるものですが、言語内部の問題との関係を中心にすると社会言語学という言語学の分野になります。言語の習得に関しては子供の言語習得、外国語の言語習得、二言語併用(bilingualism)、さまざまなことが関連してきますが、これらを扱う分野は言語心理学、ないしは心理言語学です。また、ことばのさまざまな障害とその回復を扱う分野は言語障害学といえますが、ここには言語心理学をはじめ、脳神経医学、社会福祉学等さまざまな分野が関係してきます。さらにことばそのものも人間の認知活動の重要な一部と考えられますが、そのような立場からは広く人間の認知活動・認知能力を研究する認知科学の一部として言語学を位置づけることができます。現在はそうした観点から、認知心理学、コンピュータ科学などとともに認知科学の重要な研究分野となっています。ことばを機械によって認識したり、応答したりする装置は現在の社会ではいろいろな場面で登場しています。これらは工学、とりわけコンピュータ科学とのつながりが非常に強いところで、身近なところでは、ワープロの漢字変換や自動翻訳との問題もこうした言語の自動処理の分野の仕事になります。

ことばは人間のいとなみの中でも多くの分野にまたがっている部分です。それだけにまだまだ分からないことがたくさんあります。これからますますさまざまな学問領域の協力によって解明されなければなりません。それだけに魅力に富んだ研究分野なのです。

このようにことばはそれ自体の内部構造の問題を越えてとらえなおされつつありますが、のちに見るように、とりわけ応用言語学という分野は言語学のみならず、さまざまな学問分野が関係してくるところなのです。




文献案内

鈴木孝夫『教養としての言語学』岩波新書(1996)。
個性的な言語学の入門書。いろいろな分野を解説するのではなく、著者が興味深く、根本的と考える言語現象を取り上げて言語研究のおもしろさを追求する。


鈴木孝夫『ことばと文化』岩波新書(1972)。
往年のベストセラーだが、内容はちっとも古くない。発想のユニークさ、とりわけ人称の問題の扱いは独創的。意味論、語用論が中心。


鈴木孝夫『日本語と外国語』岩波新書(1990)。
日本語と英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語などをとりあげながら、主として意味論、語用論、社会言語学の問題を検討する。


田中晴美ほか『言語学のすすめ』大修館書店。
言語学のさまざまな分野がどのようなものであるかを具体的に解説。同じ著者たちの標準的な参考書『言語学入門』(大修館書店)よりおもしろく読めるようになっている。


千野栄一『言語学の楽しみ』大修館書店(19 )。
言語学の根本問題をさまざまなエピソードを交えながら解き明かしていく。やさしいことばでかかれているが、本格的な研究の楽しみを味わえる。


松本裕治ほか『言語の科学入門』(岩波講座言語の科学1)岩波書店(1998)。
最新の成果を取り入れた自然科学的な発想で考えられた言語研究の入門書。このシリーズの特色である。


荻原裕子『脳にいどむ言語学』岩波科学ライブラリー59(1998)。


丸山圭三郎『ソシュールを読む』岩波書店。
構造言語学の祖といわれるスイスの言語学者ソシュールの『一般言語学講義』をソシュール自身のノート等にもとづきながら根本から読み解いていく。新しい発見に満ちた書。


山鳥 重『脳から見た心』NHKブックス(1985)。
精神神経科の専門家による臨床をもとにした脳と心の話だが、言語の重要さがよく分かるとともに、意味というものの深さ、大きさにも圧倒される。