子どもの意見表明権と臓器移植法の思想―日本から発信すべき2つの論点
森岡正博(大阪府立大学教授 生命学)
森岡です。30分で喋らなければならないので要点だけ言います。早口になるかもしれませんが、よろしくお願いします。さきほど町野先生からお話がありました。私と町野先生の考え方には共通している部分もありますし、まったく違う部分もあります。今日はシンポジウムということですので違うところを際立たせるような発言をしたいと思います。
さきほど町野先生が、私が今から言うことを先取りしていただいて私を紹介してくださいました。そのとおりではありますが、一つだけ違和感を感じました。私は日本文化普遍論に立っているとお考えのようでありますが、そうではないのです。私は、日本文化はどんどん変わっていった方がいいと思っていますし、私の前の職場は日本文化研究センターというところでしたが、ずっと森岡はアメリカの侵略者だと言われて、こてんぱんにやられて追い出された人間でありまして、私は日本文化を守ろうという気はありません。その話しは後でします。もう一つは、町野先生がおっしゃったことの中で、日本文化というのはけっこうみんなで仲良く同じ事をしよう、協調するという点です。私もそう思うのです。ただ、私がそういうことを言っているかというと実は違うということを、私の今日の服装を見てもらったらわかると思うのですけれど・・・。
私はNHKの人間大学でおそらくTシャツで講義を通した唯一の出演者ではなかったかと思いますけ。こういうとこにのぼるときは、背広にネクタイと決まっている日本文化の中で、あえて、こういうかっこうを通してきております。ですから、むしろ私は唄先生がおっしゃったような、自己決定権というのは「他と違ったところをどこまでもお互いに保証していくものだ」という考え方でやってきている者と自分で思っておりますので、日本文化普遍論とは違うという気が私はしております。
最初に、法律の話、移植法について私がどう考えているかということを簡単にポイントだけ述べたいと思います。時間があれば後半に法律だけではなくて、人間論、あるいは宗教論としてどんなことがありえるのか、ということを時間がある限りポイントだけおさえたいと思います。
まず移植法に関してですが、ご存知の方はご存知と思いますが、町野先生の出されている移植法の改正案に対して私は別の考え方を出しております。際立った二つの違う考え方からみなさんがご自分のそれぞれの立場を確立していただければいいんじゃないかと思うわけですけれども、私のいちばん新しい論文が今度、岩波書店の夏ぐらいに発売される「世界」という雑誌に載りますのでそちらをまた見ていただきたいと思います。ポイントだけ申します。
とりあえずまず言いたいことは、日本の現行の移植法、これが先ほど町野先生もおっしゃったように世界でいちばんいいのではないかと思うのです。むしろ世界でいちばん先進的なのではないか。だから大袈裟に言えば、世界にもっと誇っていいのではないかというのが私の考え方です。もちろん日本の現行の臓器移植法は、最上のものだとは思いません。変えるべき点がたくさんあります。けれど、他の海外の法律と並べてみたときにはけっこういい線いっているのではないかと思うのです。最上ではないけれども、比べたら最良ではないかと私は思います。
その根拠は三つありますが、まず一つ目は、日本の臓器移植法は死の選択を認めている。これは実はいいことではないか、と思います。つまり、先ほど話しがありましたように、「心臓死という死を死として」死んでいくということと、「脳死を死として」死んでいく、ということを死ぬ本人が選べるようになっています。ここに、私が町野先生と違う意見を持っておりますのは、死というものは、とくに自分の死というものは重いからこそ、その本人の選択を保証するようになっているのではないか、と思うのです。みなさんはどのようにお考えでしょうか。
日本で世論調査をしますと、だいたい脳死を人の死としない人は3割くらいコンスタントにいるわけです。だからむしろ日本の臓器移植法というのは、脳死を人の死と思わない3割の人たちの考え方を保証している法律ではないかということです。保証した上で、移植というものをも可能としていこうとする、非常に良い精神のものであると私は思います。たださきほど話しに出たように、脳死を人の死とするというのは、移植のために臓器を摘出したい人にかぎって、その人の死を脳死で判定するということであります。ここは逆に考えると、詳しく述べられませんが、そもそも脳死という概念は世界的に見たときに、心臓移植を可能にするために、移植の後ではっきりと確定されてきた概念であります。つまり、脳死というのは移植を可能にするために作り出された概念だということを言っていいと思います。ですから、まさにその問題を隠蔽せずにきっちりと法律にしたものではないかとさえ私は思い、評価できるのです。
次に第二点目を述べます。第二点目に評価できる点は、本人の意思原則を徹底していることであります。つまり80年代から、ずっと議論の中で出てきた、皆さんもよくご存知だと思いますが、移植はなぜ必要なのか、なぜ移植をするのか、と言ったときに、移植というのは脳死になった本人の善意をいかすものであるから、それをみんなで保証していこうということだったと思うのです。ですから本人の意思がある時にのみ、脳死の人から臓器摘出をするということを原則にしているという非常に筋の通った法律なのです。これはある意味で現代的な思想だと思うのです。非常に現代的な臓器移植の思想だと思います。
というのは、海外の歴史を見ておりましても、こういう思想は、昔はなかったのです。昔は本人の意思を移植にいかすという思想があったわけではなくて、むしろ古い思想というのは、死んだ時に死体の所有権がいったい誰にうつるのか、そのあたりの考慮から出てきているわけです。つまり、私が死んだら私の死体の埋葬も含め、処分権は家族にうつるのだという思想です。だとすると、その身体のなかに宿っている臓器というのも、もし脳死が死だとすれば、その臓器の処分権は家族にうつるから、家族がOKすれば摘出にうつれるという、そういう考え方を類比的にとることによって、移植というものを可能にしようとする思想があったわけです。その思想の中にはアメリカの統一死体的法があります。その思想にもう一つ付加する形で、本人が移植を希望していたから、みんながその希望をいかしてあげようよという思想があります。こういう思想が合体してできたのが、現在の世界の移植法にある二つの思想だと思います。
日本の場合です。1958年の角膜移植法ですが、これは遺族の承諾があれば、角膜は移植できます。本人の意思をいかすという思想はありません。だから、これはさっき言った処分権が家族にうつるといったある種のフィクションで考えられているわけです。その後1979年の角腎法という法律なのですが、角膜腎臓の法律ですね。ここで二つの思想が合体しました。つまり、遺族の承諾があったとき、あるいは、本人に提供したいという希望があったとき、そのときに提供できるというふうになりました。現在、世界のおもな移植法はだいたい日本の角膜腎臓法と同じような考え方に近いものでなされています。
ところで1997年に、日本で臓器移植法ができたのですけれども、このときに、日本の移植法はもう一歩進みました。つまり、本人の意思を絶対条件とする、となったわけです。このとき、移植というのは何だと言った時に、単に臓器の処分権が家族にうつるからというだけでなくて、移植というのは、移植したいと思っていた本人の気持ちをみんなでいかしていくことだという思想を前面に打ち出したのです。より、前面に打ち出したのです。これが日本の1997年の法律だったと思います。ですからその意味で、私の考え方ですが、日本の法律は一段階、遺族だけでよいというところから、次に遺族あるいは本人というふうに進化し、さらに三段階目まで進化したのですね。本人の意思をいかすのが移植の本当の姿ではないのかということにまで進化したのです。このように三段階目までいっております。ところが、これに比べて世界のおもな臓器移植法は、一段階目、あるいは二段階目くらいまでなのです。日本の臓器移植法のような法律は海外にはございません。これをもって日本は海外と比較したときに遅れている、と見る考え方があるわけですけれども、私はそうではなく、日本の方がすすんでいると見るべきなのではないかというふうに考えます。これはまた後ほど議論になると思います。
ですから、その意味で先ほど町野先生がおっしゃったように、むしろ日本は30年間、議論ばっかりやってきたわけです。和田移植以来です。だからかなり議論の蓄積があると思うのです。海外に比べて。その議論がかつ専門家だけではなく、マスコミを含め、あるいはここに来られているみなさん達も全部含んだような議論をしてきた30年間、とくにこの15年間は議論し続けてきた世界でも希な国だと思います。30年間議論したからこそ、結果として日本が最も現代的な臓器移植法を成立させてしまったのではないか。ですから、むしろ私は、これから日本の臓器移植法の持っている、世界でもあまり例のない良い面というものを海外に向かってアピールしていくべきではないか、というのが私の立場ですし、これからそういうことをやっていこうと考えています。
三番目のいい点というのは、これも先ほど町野先生がおっしゃいましたけれども、全員納得したところからスタートする、という考え方です。これが「赤信号みんなで渡れば怖くない」ということではなくてです。脳死からの臓器移植というのは、脳死になった人の治療に、その本人の治療に直接役立たないような手術をするわけです。かつそれは侵襲(しんしゅう:医学的に言う言葉。傷つけることを含む)を含むようなものです。ですから本当に慎重に、スタートする。そこに関与する人の中に、一人でもしなきゃよかったということを後から思う人が出ないようなところからスタートしていく、ということを謳っているのだと私は思います。これは、赤信号の話しではなくて、移植したい人はする、したくない人はやらない、というそのような選択権を認めているわけでありますから、赤信号、渡る人は渡りましょう、渡らない人は止まっていましょうという法律であります。一様性を求めているものではありません。後悔する人を出さないようなシステムであるという非常にリーズナブルな臓器移植法ではないかと思います。
ただ、そういうことをやっていると臓器の数が減るじゃないかと言われているわけです。ところが、臓器の数が減るから増えるように移植法を改正しようという考え方は、私は本末転倒であると思います。そうなのではなくて、むしろ正しい知識と、ドナーカードの地道な配布というところから少しずつ国民の理解を得て、移植というものをすすめていく。そして、やはり自分は脳死でいい、そのときには自分の臓器は誰かにあげたいという人がいたときに、その人がきちんとドナーカードを持ち、正しい知識を持って、ドナーカードにサインする。そしてサインした場合、みんなできちんと移植のネットにのせていくということを地道に行なうなかで、出てくる臓器の数は増やしていきたいのならば、増やしていく、ということをすべきだということ私は言いたいのです。臓器が出ないのだから、法律を改正させて増やそうという、そういう乱暴なことを言っている方も希におれますけれども、そういう考え方はないのではないか、というのが私の考え方です。
それから、町野先生への私の反対意見というのは、先ほども言いましたが、日本で脳死を死と思わない人は3割いるわけです。この会場の中にも3割いらっしゃると思うのです。「みなさんは、ドナーカード書いていますか?」っていうと書いてないでしょう。そうすると、みなさんこのシンポジウムが終わって帰るときに、トラックにダーンって引かれて、脳死になるかどうかわからないけれど、もしも脳死になったときに、家族が「うん」と言ってしまったら、自分は脳死を死とは思っていないけれど、ドナーカード書いてなかったというただそれだけのことで、あなたの死は脳死で判定されてしまうわけなのです。もし町野先生の案が通ればのことです。現行法ではそれはありません。ですから、町野先生の案、あるいは海外の法律というのは、もしも日本で適応した場合、だいたい3割前後くらいの人のある意味での人間の尊厳を損ねるものになると思います。その意味で私は反対いたします。他にもありますが、これはまた後程述べたいと思います。
海外で渡航移植をする方にも同じことを言いたいと思います。はっきり、そう言いたいです。海外で渡航移植をする方は、海外にも脳死を死とすると思わない方は何割か、調査すればいるわけです。その人たちの中で意思表明していない人たちの臓器をもらうことになるのだよ、ということを私は言いたいと思います。ただ、現行法で何とかしなければいけないと思うのは、15歳未満の脳死になった子どもからの臓器摘出をどうするか、ということです。これは今、ガイドラインでできないようになっていますが、私は現行法の枠組みはそのままにした上で、15歳未満の特則を設けるかたちで法改正をすべきだと思っています。ただ、子どもの問題についてはけっこう、私もそうですし、町野さんの案もそうですが、詰め切れてない部分が多いですから、ほんとうに時間をかけてゆっくりいろんな立場の人と議論していきたいと思います。具体的に私は子どもにもドナーカードを持つことをゆるす、というかたちで考えたいと思います。子どもの場合、子ども用のドナーカードに本人が署名をしていて、かつあらかじめ親権者も署名をしているという、そういう場合のかぎり、その子どもさんが脳死になったときに臓器を摘出するようにすればいいのではないかというのが私の考え方であります。年齢なのですけれども、どこまで子どもにドナーカードを持たせるのかということですが、最終的に私も確定できていません。とりあえず、今度の論文では6歳から15歳の間というふうにしていますけれども、これは今議論しているなかでいろんなご意見が出てきていますので、年齢についてこれからオープンにしていきたいと思います。とりあえず私は6歳と言っていますけれども、これはまだわかりません。もう一つ考えておかなければならないことは、毎日新聞で報道されてご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、子どもが脳死になった140例中、毎日新聞の独自調査も含めて4例、脳死になった子どもが親の虐待によって脳死になっております。これは何なのか。つまり、親の虐待によって脳死になった子どもをさらに親が承諾したことで臓器を取り出すということをしていいのか、と。それをしてしまった場合、親が虐待するときに、虐待して脳死にさせておいて、さらに臓器まで摘出させてしまうという最悪の虐待がありえるわけです。ですから、このことはやはり考えなければならないと思うのです。児童虐待で脳死になるというケースを重く受け取るとするなら、それは子どもの生命の保護という刑法のとても重要な考え方からすれば、むしろ子どもからの摘出は制限すべき方向で考えるべきだとする考え方が出てきそうだと思います。この点を含め議論すべきだと思います。以上が法律に関して私がとりあえず考えていることであります。
このシンポジウムはいのちと死を考えるということなのですけれども、法律の問題はとても重要な問題で、これから秋あるいは来年にむけて、ぜひみなさんそれぞれ議論していっていただきたいと思うのですが、同時にこの問題を考えてみますとやはり、生と死って何だろうとか、医療って何だろうとか、人はどういうふうに死ぬのがいいんだろうという問題につながっていることに気が付くわけです。ですから、法の次元の話しをしつつ、かつ、生命の問題についても深く考えるということを余儀なくされると思います。なるべくつなげて考えていく、そこを深めていく、その上で法律は、法律として、法律の次元できちっとやっていく、行きつ戻りつということをわれわれは豊かにやっていくべきだと思います。ただ現在のところあまりそういうことがなされなくて、これは特に生命倫理学という中でも顕著ですけれど、死の意味は何かとか、死んだらどうなるかってことは、とりあえず考えずに、権利と義務関係をきちんとしようという、アメリカの生命倫理学の強い影響があるのです。それはそれでいいのですけれど、やはり生と死の意味も考えるということにもわれわれ開かれていかざるをえないのではないかと思うんです。そのように考えたときに私はいつも思うことがあって、私も『脳死の人』という本を出してから10年くらいいろいろ考えたり発言を続けたりしていますけれども、町野先生もそうだと思います。私もそうだと思いますけれども、人前で言うときにはけっこう断定的に言うわけです。こうだ、とか、こうしよう、とか言うのですけれども、実は一人の人間としては揺れているわけです。ここがなかなか論文とかでは伝わりにくいわけです。講演会とか、研究会とかではけっこうこういう部分を言うように心がけていますが、その問題があるのです。つまり、たとえば脳死、臓器移植を考えたときにも、やっぱり悩むわけですよ、私自身が。揺れ動く。そういうリアリティを私は生きているわけです。これはみなさんそうだと思う。だから、脳死っていうと、左っかわに脳死推進派ゴーゴーってのがいて、反対側に脳死絶対だめ、移植だめっていう反対派っていうのがいて、その間で喧嘩しているような印象を受けるかもしれないけれども、たぶん、本当はそういうことではないと思うんです。
私自身は、89年以降は脳死、臓器移植慎重派というふうに、言い続けられてきております。たとえば、脳死論における一面的言説というのがあるのです。たとえば80年代かなりありましたけれども、移植とは何か、移植というのは臓器をあげたい人の人類愛の行為だと言った人がいた。確かにそうなのですが、移植=人類愛、100%だというのは嘘なのです。よく考えると。たとえば、臓器をもらいたいという人は、人類愛でもらいたいわけではないですよね。やはり、長く生きたいわけです。実際、臓器移植を受けて、成功すると、クオリティ
オブ
ライフは改善されますから、寿命ものびます。ですから、そうじゃない生よりも、そういう生を生きたいというその人のある意味での生への執着というのがはっきり言ってあるわけです。あった上で、でもね、病気になったらなったで治りたい、短く生きるよりは長く生きたい、し残したことをもっとやりたいという、こういう意味での生への執着を否定できる人は誰がいますか?キリストだって言ったでしょ、なんか石を持ってなんか・・・石投げるなって言ったじゃないですか、うまく言えないけれども、みなさんの方が詳しいと思いますけれども、後で教えてください。なんかそう言いましたよね。だから、生の執着だっていうことを事実は事実だって認めた上で、生の執着をするおまえが悪いって言える人がいったいいるのか?というあたりのことを、やっぱりちゃんと考えた方がいいと私は思うのです。
一面的なことだけ言うのは、やっぱりおかしい。それで、同じことかもしれないのですが、移植を反対する人の中にこういうことを言う人がいるのです。そこまでして生き延びたいか、というふうに言う。これも私へんだと思うのです。今の話しと同じなのです。そこまでして生き延びたいか、というのですが、じゃあ、あんた、どういう生活してるのよ、ということです。逆に、あなたはもしも病気になったら医者に行かないんですか?と、今度は逆にそっちの面ばかり言う人もいるわけです。私が脳死論慎重派っていうと、じゃあ、あなた病気になったら医者行かないのですか?だから、こういう水掛け論になる議論ってたくさんありました。私もそういう現場にいました。非常に不毛です。だから、私は本当に思うのですが、人間というのは人間の存在に即して見たら、そんなに一貫しているわけではないのです。揺れ動くのです。揺れ動く中で、いろんな側面のことがだんだん、こういう話しをしたり、聞いたり、考えるうちにみんなだんだんわかってくる。その中で、揺れ動きながらも、ある一つの決断をしなければならないとき、あるいは、ある一つの法律を決めなければいけない、あるいは一つの、われわれの倫理の方向性というものを決めなければならないときというのがある、そういうときにどうするかという、そういう話しなのだと私は思っています。
たとえば私は慎重派でしたけれども、あるシンポジウムの上で、ずいぶん前ですけれど、慎重的な意見を述べたときに、ある移植のお医者さんの方が、臓器の不全で非常に悲惨な姿になったお子さんの写真をみせて、あなたのせいでこの子が死んでいくのです、と言われました。そう言われたのです。つまり、こういう言い方こそ、いちばん不毛だと思うのです。そんなことわかっているわけで、わかった上で、だけれども慎重な発言を考えた上で、今ここでしなくてはいけないというある文脈があるわけなのです。そういう問題なのだと思う。それを聞いていてみなさんは、自分の場合どう考えるのか、どういうふうに受け止め続けていくのかということなのではないかと思うのです。
たとえばこういうことも言われるわけです。脳死慎重派ですと言っていたら、じゃあ、あなたのお子さんが、心臓の弁膜症とか移植しなければ助からないときにはあなたはどうするのですが、見殺しにするのですか?と。こういう突き詰めかたも不毛だと思います。そのときに私は言ったのですが、もしも私の子どもがそういう状況になったときには、わたしは慎重論を捨てるかもしれない。この子のために誰か臓器をください!と言って、言いまわるかもしれない。街頭で募金を募るかもしれない。ほんとに。これが人間だと思うのです。私はそういう人間です。だけれども、そういう私が今慎重論を述べているという意味を伝えたいわけです、私は。慎重論というのは10年くらい前の話ですが、今もそうかもしれない。私の子どもに心臓ください、腎臓ください、と募金をお願いしたときには、誰かが私を止めてもらいたい。止めるって変だけれど、誰かが私に何かを言って欲しいと思う。あなたは別の考え方を言ってたでしょって。だけど、それを私は聞かないかもしれません。人間ってそういうものだと思うのです。だから、このあたりが、実は人間論だと思います。この辺の話しを私は今もうまく整理ができません。でも、こういう視点というのは抜かしてはならないと思います。つまり揺れ動き、ときには私の言っていることが、反転しちゃうようなものを孕んでいるのが人間なのだと思うのです。そういうリアリティを生きている。これがいのちのリアリティなのではないかと思います。そういう方向で考えていきたい。それはやっぱり人間が持っている欲望と、自己正当化とその他さまざまな底無し沼のようなものだと思います。その深さというものは、底なし沼。そういうのを抱えていると思う、人間は。
たぶん宗教とか、ほんとの生のまなざしというものは、そういうものに直面したときに出てくるのではないか、と私は思うのです。私は宗教家ではありませんし、信仰を知っていませんけれども、たぶんそういう面があるのではないか、と思います。
もう一つ思うのは、そういう深さ、底無し沼の深さというものに一面的にではなく関われるものとして、実は今文学というものを考えています。最近思ってきたのですけれども、とりあえず学者をやっていますから、論文も書いていますけれども、脳死、臓器移植の問題というのは、とりあえずどっかの時点で、これは文学のテーマではないかと思います。文学のテーマとして人間の泥沼の奥深さを書ききったときに、たぶんこれは非常に現代的な文学ができるのではないかと、私が書くかどうかわかりませんが、はやく大学教授やめてフリーになって書きたいですね。
もう一つ、子どもさんを脳死で亡くされた方、脳死を経て亡くされた方の話しを何人かからお聞きしていますけれども、そのなかに割と、頭ではわかっていても身体では納得できないという、実感として目の前にいるのは生きている人としか思えないけれども、脳死が死だと頭ではその人は思っている。事実、わかっている、しかし身体で納得できない。こういうケースがいくつかあるのです。これをどう解釈するか。一つは、事実は死んでいるのですけれど、人間の感情というのはとっさのことに対応できなくて執着をひきずっている、というのが解釈の仕方です。もう一つの説明としてですが、こういうことだと思うのです。これも私はうまく言えないので、尻切れトンボになってしまうかもしれませんが、そういう人たちのリアリティのある言葉を聞いていると、こういうリアリティがあるのです。
つまり、脳死になったこの人は、つまり自分の息子が脳死になっている。見ている人は医者だったりする。だからこの人は脳死を死だと思っている。頭ではそう思っている。だから、この人(息子)はもうこの世にいないのだ、だけど目の前で生きているような感じ、見ていると、ここにいるとしか思えない。息子がですね。これはどういうことかっていうと、そこでその人は二つのリアリティに引き裂かれているのです。その引き裂かれかたというのは、いるはずのない人が今ここにありありといる、という、こういうリアリティになるのです。この問題の中に、私はひとつに宗教を、宗教性をみます。私が言っているのはある例についてのことです。全員がこんなことになるというわけではありません。脳死が死と思っている人の息子さんが脳死になったときに、そのなかであるケースでは、今のようなかたちの印象を受ける人、そういうリアリティを持つ人がいるのです。死んでいるはずなのに生きている、いるはずのないのにここに人がいるってことです。
その場合に、いるはずのない人が今目の前にありありといるっていうことが、なにものかがそこに「到来」しているってことだと思うのです。いきなり難しい言葉を使いますけれども、到来っていうかな。ありえるはずのないことがここにある、というリアリティが集中治療室の現代医療の最先端において、生じている、生じていることがある。このことへの敏感さ、あるいは直感というものは、非常にこれはいのちとかいうもの、宗教の次元から考えていくときに大事な直感なのではないでしょうか。ただ、私は言葉が足りませんのでこれ以上厳密には言えません。だからこういう次元というのはほんと大事だと思います。それを考えつつ、かつ法律の話しをするときには、だから法律はこうだというわけではなく、法律はまた別の論理で考えなければならないと思います。だけれども法律の話しをすれば全部おしまいってわけにはいかない、もっと別の深い次元の話しがある、それはこれから100年、200年かけてわれわれがずっと考え続けていくべき問題、視点だと思います。ということで、法律論と人間、宗教論について今考えていることを舌足らずですが述べました。