足るを知る-生命現象と文化現象の交差点に立つ哲学者の疑問

J. マシア

 前置き

 みなさん疲れていらしゃるかと思いますが、眠気覚ましの一つの話をさせてください。よろしいでしょうか。過剰医療という言葉があります。おうげさな医療。だいたいわたしたちは過剰医療という言葉を聞くと、複雑な機会とか、お金がたくさんかかるとか考えがちですけれども、実はこの言葉がはじめて使われた段階にさかのぼりますとおどろきます。16世紀、スペインのサラマンカ大学でカトリック倫理学者ビトリアが講義をしていました。彼は国際法の親としてよく知られています。彼は過剰医療について話すとき次の例をあげています。ある患者が、まいにちグラス・ワインを飲むことをやめるようにと、医者から言われました。「それをやめないといのちがちじまるでしょう」と言われました。しかし、彼は「いや、先生、グラス・ワインひとつぐらい飲めなかったら命が長引いてもつまらないよ」と答えました。そこでビトリアは結論を出します。この患者にとってグラス・ワインをやめることは過剰医療です。このように、カトリック神学ではおおげさな医療を拒否する伝統がありますが、その背景に大きな前提があります。つまり、死を見つめ、死に向かっての正しい選択の仕方をするという態度です。

 第一部

 さて、主催者の方からの依頼に答えて私の話の第一部で二つの点に関して手短にお話します。一つは神学の立場からの一言。二つ目はスペインにおける移植医療について一言。この二点についての話を手短にかたづけたいと言えば主催者から怒られるのですが、その後、第二部はいちばんわたしが申しあげたいことです。 それは、自分の専門分野である哲学の立場から移植医療に対してわたしが抱いている根本的な疑問を出させてもらいたいと思います。 

では、まず手短に神学の立場からのひとことを述べますが、ご存じのようにカトリック倫理では過剰医療に対してむかしから懸念をあらわしています。前置きであげたビトリアの例は典型的です。

カトリック神学では命というものを神、創造主からいただいた預かり物として受け止めています。その命を助けるための医療の開発を全面的に支持します。同時に人間と医療の限界を認め、死を見つめることから逃避しません。そして、現代医療の中で臓器移植の発展を歓迎し、臓器の提供は無償の隣人愛の行為でありうることを認めていますが、やりようによっては人間をきずづけることにもなりかねません。したがって、臓器移植を認めるとき条件を付けています。

 カトリック倫理学者たちは臓器の提供には次の条件をつけています。1) 提供者の自由意志による同意, 2) 死の確認 3) 遺族への配慮, 4) 遺体への畏敬 (モノ扱いせず), 5) 売買を避けること, 6) 受容者の選択における公正、という条件です。

 このような積極的な評価はすでに四十年以上前から教会が行っています。一番最近の公式な文書を引用しますと、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が1995年に公布した『命の福音』という回章の中で臓器移植を評価したうえで、次の条件付きの表現を用いています。つまりそれは「倫理的に認められる方法で実施される臓器の提供です」(『命の福音』86番)。さらに、同じ文書の中で「臓器をとりたいがために死の確認をおろそかにしてはならない」ということも言っていますし、臓器の売買に対して注意もうながしています(同上、13番)。 

 

 それから、死の確認に関して言えばずいぶん前、1957年に麻酔学会のほうから教会の公式な意見が知りたいという申し入れがあったので、当時のローマ教皇ピオ12世はそれに答えて、「死を確認するのは医学の役割である」と指摘しました。

 歴史的に振り返ってみると、カトリック神学の中に、移植に関する見方がどのように変わってきたかということにはとても興味があります。それを短くまとめますと次のような変遷をみ見せています。

 1950年代、神学の専門雑誌の中で臓器移植に関する賛否両論がカトリック倫理学者のあいだで討議されて、この点に関する懸念がまだ強ったのですが、はやくも60年代の始めごろから理論的な問題が解決し、条件付きで臓器移植を認める方向に統一した見解が定着してきました。あのころを振り返ってみると臓器移植が実験的に認められるようになってゆくのですが、こうした医療行為は果たして治療に当たるのかどうか、という視点から論議もつづきました。

 さらに、60-70年代になると、カトリック神学のあいだでは臓器移植を認めるということだけでなく、それを積極的に勧める方向に進んでいき、隣人愛の行為として積極的な評価がなされるようになりました。

 そして、1970年代では技術上と法律上の諸問題が欧米で整理されてゆくにつれて臓器移植はいよいよ普通の医療のようになってゆきます。ただし、脳死を前提にした移植の問題、特に心臓移植にともなう問題は、今なお論議されつづけています。

 ところが、80年代になると新たな問題が生じて来ます。一つは国際的な幅での臓器売買が問題にされ、それから、医療資源の公正な分配がますます問題とされたのです。こうしてみると、必要な条件を満たしたうえで、移植が慎重に行われた場合でも、それが無償の愛であることを認めたうえでも、なお医療費の分配と正義の点から懸念されています。 

 なお、1990年代からもう一つの根本的な疑問が出ています。それは、人間観、死生観と言う観点から出される問いです。つまり、技術文明における死生観の変動、人間の部品化、機械化などに関してますます懸念を示すようになりました。

 そこで今の時点でのカトリック神学の立場をまとめれば、次のようになります。臓器移植に関しては理論的には認められるだけではなく、人に勧められるのですが、これは本来あるべきやり方で行われるならばの話ですよ。しかし、実際のやり方を見ると、近くから見れば見るほど疑問が出てもふしぎではないのです。だから臓器移植に関しては当然慎重になるべきです。

 さて、ここまで神学の立場から話しましたが、神学のところはこのぐらいにしておきましょう。

 次に、スペインにおける移植医療の現状について一言述べますが、法律の詳しいところまで立ち入らないつもりですスペインの場合、1979年から、法律が決まって、自分が拒んでいなければ自動的に提供者になれますし、家族の同意が法的には要求されていないのですが、実際に医師たちは必ず家族の意志を伺うのは普通です。そして、聞いたときに、家族のほうから断ることはあまりないのです。80%の人間が同意するそうです。他のヨーロッパの国と比べると、スペインのほうが提供者が足りないと言う事はあまり言われていません。この法律がかなり早く決められたのですが、その下準備の段階で行政と学会と世論の間の意志の疎通が非常にうまくいったことも指摘されています。わたしは個人的な意見として自分の国のこの法律には賛成しておりません。とにかく、あの法律が決められた段階で、カトリック教会の方からの積極的な支持があったことが事実です。例えば、カトリックの司教たちは臓器提供者になるように信徒に勧めたこともあります。「自分もドナーになるから、みなさんもどうかドナーになってください」と信徒に訴えたのです。

 ここまでスペインの現状についてのひとことを述べましたが、どうも欧米と日本の比較に関して要注意のところがあるような気がします。

 欧米の人から、日本は遅れていると言われると「遅れてはならない」と感じて日本人は焦るでしょう。わたしはそうした言い回しを使って日本人を洗脳したくありません。実はわたしは一昨年までスペインのマドリッドで10年間講義をしてきましたけれども、あちらで日本の例を引き合いに出すことがかなりありました。そうかといってわたしは決して日本文化絶対論ではありません。むしろ日本を愛しているから安心して日本批判もする自信が出てきます。

 しかし移植の問題に関しては、この10年間の間、日本人から多いに学ぶところがあるということをわたしは言い続けてきました。今日、森岡さんの問題提起からの学ぶ点が多いと思って興味深く伺いました。日本には臓器提供に対して抵抗感があり、違和感があるということ自体、健全なことではないかと思います。

 では、個々までの話でもう充分に主催者の要求に答えたと思いますので、第二部に入りたいと思います。しかし、みなさんお疲れのことと思いますので、このところでまた幕間としてちょっとひと休みになる話しをしたいと思います。まあ、しかし、休みといっても、一番申しあげたいポイントもこの話の中に入っていますので、うたた寝しないで聞いてください。

 幕間。

わたしの生まれ故郷、スペインのムルシアというところで起こったできごとです。脳外科手術の後で深い昏睡状態に入っている患者がいました。その患者が機械につながれており、集中治療室に入っていました。彼は脳死状態に陥ったと思われたとき、主治医をはじめその手術にあたっていた他の医師たちが相談してから、家族にそれを伝え、そして、その理解を得た上で、脳死状態かどうかということを確かめるための診断を行ないました。たまたま医療チームのうちの一人の医師は私の従兄弟でしたが、彼からこの話しを聞きました。脳死が確認された段階で、改めてそれを家族に告げました。今わたしは注意して「確認」という言葉を使っています。わたしは「判定」という言葉にひっかかっているからです。ここで言う脳死状態の確認が済み、これからどうするかということになりましょう。つまり、その患者は、自分の「生前の意志」(Living willといいますか)を書いていました。あの方の意思表示書に何が書いてあったかというと、過剰医療、無意味な延命処置などを全部断っていました。そして、臓器提供も拒んでいる方でした。家族と医師団との相談の上で、機械をはずすことになりました。脳死状態を確認されたし、本人の意志も家族の承認もあったので、医療処置を外してよいということになりました。

 しかし、その相談をしているとき、その人の妹は、「残念ですね、二時間後でしたら姉が間に合ったのに」と言いったのです。医療チームの一人だった私の従兄弟は彼女に聞いたのです。「間に合ったとおっしゃいましとどうしたのですか」。そしてそれに、「実は、先ほど飛行場から電話があって、姉が着いたところで、こちらにむかっているところです」と答えました。その言葉を聞いて、二人の医師の視線が合って、同時に二人とも言ったのです。「そうでしたら、待ちましょう」。彼女は「いいのですか」と聞くと、主治医は、「もちろん、当然でしょう」と言いました。結局、二時間待った後、お姉さんが着いて、脳死状態の患者に会って、その後、レシピレーターをはずすことになりました。

 わたしはこのケースによって、ずいぶん考えさせられて多くのことを教わりました。まず、本人は臓器提供者ではないので、はっきりと「脳死状態確認」の問題と、移植の問題を別々に考えるために参考になるケースだと思いました。そして、臓器移植する予定がなくても、患者の脳死状態が確認されれば、医療措置をはずすかどうか、そしてはずすとすればいつはずすかなどの相談に入ることができます。(もちろん、自動的にそれをしなければならないのではなく、「することができる」ということです)。

 そして、それについての判断は、あのときどのように行われたか、ということも興味があります。措置をはずすまで二時間待ったという決断の仕方には特に重要なポイントがあります。それは医療上の決断(medical decision)ではなかったし、法律上(legal decision)の規定に基づく決論でもなかったのです。あれは、人間的な決断(human decision)だったのです。たしかに、法律的な規定の助は必要ですが、法律だけでは生命倫理の根本問題が解決できません。まあ、こういうところに米国医療のバイオエシックスは、官僚的になりすぎて法律的に行き過ぎたというのがわたしの批判ですけれども・・・

とにかく、先のケースにみるような状況においてどのようにすればよいのかということは、なかなかどのマニュアルにも書けません。従兄弟に、「それについてあなた方の病院で何かマニュアルの規定がありますか」と聞いたのですが、「いいえ、それぐらいの決定をするのにマニュアルなんかいらないでしょう」と答えてくれました。わたしもそう思います。これはマニュアルの問題ではなく、人間的なレベルで当然のこととして行われた判断でした。先ほどわたしは日本を誉めたんですが、申し訳ありませんが、こんどは多小の批判的なことを申しあげます。「マニュアルがあればマニュアルのとおりにするけれども、マニュアルがなければ動きがとれない」といった文化の中では、個々で紹介したような決断の仕方ができるかどうか疑問です。今わたしは上智大学で働いていますけれども、学務などに行きますと同じ問題にぶつかります。マニュアルがあればマニュアルのとおりにするけれども、マニュアルがなければ動きがとれないのです。

第二部

 さて、これで幕間は終わり、第二部に入ります。難しくなってくるかもしれませんが、一番申しあげたいことを哲学の立場から述べるところに入っていきます。私は1987年の秋に、『生命の未来学』という本を著したとき、副題には、「生命倫理を超えて」と書きました。それにはちゃんとした理由がありました。というのは、その頃からわたしは生命倫理から一応、距離を置いて、特に米国流のバイオエシックスを批判し続けてきたのですけれども、最近、スペイン語で著した哲学的人間論に関する本のなかに、私は「生命と文化といった二つの軸に重点を置いて、従来の人間研究を考え直すように」と訴えました。

その本の中で、脳死と移植について触れたところに7つほどのテーゼの形で次の疑問を出しました。

1)脳死判定と言う言葉は正確な表現ではありません。あたかもこちらから定めるように判定という言葉を使ってしまいます(英語でdetermination, スペイン語でdeterminación)。わたしが提案したいのは「確認」という言葉を用いることです(スペイン語でcerciorarse)。法的な規定にもとづいて死亡診断証明書を書くときには、臨床的な確認が前提にされます。それは医学的にみてこの個体はもうすでに生物学的な意味での不可逆的な点を超えたので、蘇生がありえないことの確認です。それをふまえたうえで、「遺体として扱ってもよい」ということは法的な規定にもとづいて確認されます。しかし、これは決して「人間の死」という謎がとけたということにはならないのです。

2)「ヒトという種の一個体の生物学的な観点からの死」というものと「一人の人間の死」というものをを区別する必要があります。「人間の死」という概念は「ヒトの一個体の死」より広い概念です。

3)脳死の確認と脳死状態の患者の扱い方と脳死状態における移植は、別々の問題として扱われるように、問題整理をする必要があります。これはわたしは20年間のあいだ言い続けてきたのですが、なかなか通じにくい考えのようです。脳死の問題と移植の問題をなかなか別に扱ってもらえないのでこまります。

4)国際的視野の中で、医療資源の分配という観点と社会正義の観点から移植を考え直さなければなりません。日本で募金して、移植手術のために患者がアメリカに行ったとかいうことをよく聞きますが、これはかなり考え直さなければならないでしょう。というのは発展途上国で同じ病気をもっていてもアメリカまで旅行できない人々もたくさんいるし、ちゃんとした診断も受けられないので、その病気をもっていることさえわからない場合がおおいからです。

 ところが、この話をすると、時々はねかえってきます。「臓器をもらえなくて、この子が死んだのはあなたのように臓器を提供しない者のせいではないか」と。その気持ちが分かっても、やはり南北問題と言う観点から問題提起しなおしたいと思います。「あなたは慎重派ですから、この子が死にますと言われた時には、わたしは「いいえ、この子だけではなく、アフリカで医療付属のため死んでいく何万人のこどもたちのことも考えましょう。もしその子供達の事を考えなかったら、この子が死んだのはあなたのせいだというのは自己欺瞞ではないでしょうか。人類の連帯性を根拠にして移植を勧めるなら全人類の事を平等に考えなければならないでしょう。

5)死を見つめない文化と科学技術の一人歩きによって操られている現代文明には自己破壊の可能性が多いのです。現代の人類は多くの面で進歩したけれども、進歩でなくて逆のことも多くありますから、その現状に目覚めて哲学の面から批判する必要もあると思います。

 6)多様性のある現代社会においてわたしたち人間としての(最低限の共通な)倫理の探求に務めると同時に、それぞれの宗教伝統にみられる生命観、死生観から学ばなければならないのです。lifeという言葉は、生物学的な意味での生命、社会的意味での生活、心理学的な意味での人生とも訳されますし、日本語には寿命という言葉もあります。そして、いのちというときにはより深い意味合いが含まれています。仏教では、わたしたちを超える絶対的な意味でのいのちというでしょう。ユダヤ教もイスラム教もキリスト教も永遠のいのちについて話します。そういう深い意味でも、いのちというところを考えるときには、いろいろな宗教からの貢献が大事だろうと思います。ただし「世俗倫理」に対しても「宗教倫理」に対しても(両方の一人歩きや一面性や熱狂性を避けるために)哲学の方から「軌道修正」しなければならないと思います(ここにこそ、議論や対話における「解釈学的哲学」の特有な交通整理の役割があると言えましょう)。

7)死はモメント(瞬間)ではなく、プロセス(時間がかかる過程)です。

 では、以上のすべての点について話すには時間がないのですが、最後の7番目だけをとりあげておきましょう。

人のいのちの始まりも終わりも一瞬に起こることではなく、時間がかかるプロセス(過程)だと思います。

 知り合いの家庭を訪問して驚いた話を聞かされました。母親は三才の子どもと一緒にデパートに行って、そこで小さなカブト虫の入ったカゴを買ってあげたのです。一昔前だったらこどもたちは庭で網を使ってカブトムシを取ったりしていましたが、このごろ、デパートで売るそうですね。それも現代文明の悲惨なところのひとつでしょう。とにかく買ってもらって、子どもは喜んで遊んでいたのです。そうしているうちに、カゴの中の虫が死んでしまったのです。そのとき、子どもはお母さんにむかって何を言ったと思いますか。子どもはカゴを手に「お母さん、電池を取り替えてちょうだい」と言いました。「電池を取り替えてちょうだい」。これは笑い話のようですが、そら恐ろしい話しだと思いました。まず、生き物を機械と間違えることは恐ろしいことです。それから、電池を取り替えればもとに戻るということになれたらいったい死ということがわかるでしょうか。さらに、この子どもが大きくなったら電池が切れたら機械が止まり、インクが切れたらプリンターが働かなくなり、電気が切れたらパソコンが動かなくなる・・・それとまったく同じように、人間の誕生も、死も一瞬間に起こる機械的なことだと考えてしまうかもしれません。そして、線をひいて、生と死の境界線があると考えてしまうかもしれません。境界線はありえないのです。米国流のバイオエシックスでは白黒の傾向がつよいのです。これに関して曖昧さを見直したいものです。白黒ではない領域があれば、それはさっき森岡さんが言ったように、人間は揺れ動くところだと思いますけれども、そうしたあいまさを隠したくないのです。(法律家たちにとってもちろん白黒しかないかもしれませんが、だから法律だけでは生命倫理の問題が扱えないのです)。

では、先の子どもの話にもどりますが、あの子どもが将来、お医者さんになったらどうなるのでしょうか。もしかすると病人よりも病気だけを見て、心身よりも肉体だけを見て、身体の部分を機械の部品のようにみて、臓器を部品のように見てしまうかもしれません。あるいは生殖医療の専門家だったら胎児を物扱いしてしまうことにもなりかねないでしょう。

わたしは生命倫理の講義では、生き物は機械ではないということも、生き物には交換価値に還元できないものがあることも強調しています。そして、生まれることも死ぬことも「時間がかかる」成り行き、プロセスであるということを強調しています。生殖医療と移植医療、両方について取り扱うとき、わたしは体外受精と脳死という二つの終点よりも、そこに至る成り行き、また後に続く成り行きを強調します。生まれゆく過程、死にゆく過程。

十五年前に『生命の未来学』という本の中でわたしは体外受精や脳死の是非を論じるよりも、生命の誕生を迎えること、死を位置づけることを強調し、脳死の問題に対していささか関心を失いつつあると書きました。今だったら「いささか」ということは書きません。まったく興味がない、と言いたいのです。だから今日ここにいる資格はないんですね。わたしは移植の問題に対して、脳死の問題に対してぜんぜん興味がないのです。なぜかというと、生命倫理の問題はそこにはないと思うようになったからです。それよりもむしろ病院の非人間化、死にむかっている患者の看護、医療制度のあり方、医療への不信、現代文明における科学技術の一人歩き、それこそ問題であって、脳死移植どうのこうのとシンポジウムをする余裕を持っているわたしたちは、裕福な社会の中で「バイオエシック祭り」であそんでいる人々にしかみえません。

日本語では人が死ぬとき、息を引き取ると言います。聖書では息を引き渡すという言い方もありますけれども、息が止まったことは決定的なしるしになります。そして、それを確認した医師は家族にむかってご臨終です、と言います。日本語で、臨終というのは、終わりに臨んでいると理解していいでしょうか。もしそうだとすれば、やはりここに、過程、プロセスが強調されていると思います。看取っていた家族にとってその人の息が止まった後でも、大切な時です。ご遺体に畏敬を表わしながら、その死を厳重に受け止めたりして、死の受容も遺族にとって時間がかかることでしょう。生物学的、あるいは医学的な意味での死よりも人間的、社会的な意味での死のプロセスの方が、長くかかるものです。これを忘れた現代の過剰医療、移植医療は、あるいは集中治療室などで、本人からも遺族からも死そのものを奪い取っていると私は思っています。そして、遺体や遺族に対して、畏敬と配慮をあらわせない医療のあり方も非人間的であると言わなければならないでしょう。

ここで、「死にむかっていく過程」を生物学的にみた場合、その中でいくつかの決定的な時点を指摘することができると思います。脳死状態になったと確認されたとしても、それは後戻りがないということでしょうが、これはあくまでも生物学的な観点からだけです。もう一つの観点、人間的な観点ですが、死を宣告されてから死ぬまでのあいだ、患者のまわりの人も死に対して拒否と受容をめぐって揺れ動きがあるだろうと思います。臨終していくという言い方を使っていいかどうか知りませんが、すなわち死にのぞむ過程を一緒にたどっていくのです。残念ながら過剰医療はそれを妨げますし、移植医療も、この間の日本でのはじめての臓器移植の報道を見ればわかるように、それを妨げているのです。

では、生物学的な意味での死が確認されたとして、遺体を遺体として扱ってもよいとなったとします。そこで、遺体を遺体として扱うときにいちばん欠かせないのは、遺体に対する畏敬でしょう。遺体とはなにかと聞かれたら、これは哲学のたいへん大きな問題ですね。遺体は、者(人の)でもなければ、物(品物)でもないのです。正確に言えば、者だったところの主体の表現だと思います。遺体の「体」という「字」は、身体の「体」と同じなんです。わたしは日本語で高く評価して何回も読み返している身体論は、哲学者湯浅泰雄先生のものですが、先生が指摘しているように、遺体の体は身体の体であることは、意味深いと思います。本人が生きていたとき、身体は主体の表現でした。これは人間学の中心的なことです。今は、もうその人は死んでいますが、遺体は表現の意味を当分の間まだ備えていると思います。たとえば悔やみに来た人は、遺体にむかって合掌します。そして遺族にむかって言います。「なんと平安なお顔をしていらっしゃいますね」。それを聞いて、遺族の方は慰められます。そのとき人が死んだ後でも大切な過程がつづくことがわかりますこれらの側面全部含めて、「人間の死」と呼びたいです。それはヒューマン・プロセスとしての人間の死です。

 葬儀、追悼、供養などは、亡くなった人をしのぶ親族にとって大切な過程です。この過程を無視したような移植医療の在り方が「はげたか」に例えられても仕方がありません。

 わたしは二十年間のあいだ講義で移植の問題をとりあげたとき、どうして自分が提供者ではないと言う質問が出てきていました。同僚の生命倫理学者に説得させられてやっと抵抗を乗り越えて提供者カードを作ろうかと決断しましたが、半年後で(ある学会でのいやな体験がきっかけに)提供者カードを破りました。どうしてときかれたら、イ)現代医療の機械化と非人間化、ロ)臓器の商品化と部品化扱い、ハ)死を見つめることからにげている現代文明をみていられないからです。

 「足るを知る」、というか、死をみつめるというところから逃げないで、限界を認める医療になってもらいたいと訴えても効果がないだろうと知りながら、訴え続けたいと思います。

 臓器移植はその他の医療と同じように、病気に対する措置ではありますが、死の問題に対する解決ではなく、ただ一時それを後回しするにすぎません。さらに、自分が移植の受容者になった場合を想像してみます。そうすると次のような矛盾にぶつかります。それは、人の死を望むわけにはいかないという気持ちが生じて来る一方、新鮮な臓器の摘出出来る状態の遺体が手に入るようにという願いが出てきてしまいます。例えば、交通事故で若者が脳死状態に陥れば都合がよいのです。しかし、全ての交通事故が完全に亡くなる状態を望んだほうがより人間らしい考え方ではないでしょうか。

 このように考えますと、人の死を望みそれを待っているわけにはいかないのです。むしろ臓器を部品のように見、提供者が死ぬのを待ち望んでいる社会は健全ではないとさえ言わなければならないでしょう。事実移植が盛んな米国において「臓器がたりない」ということばは耳にタコできるぐらいくりかえされてしまうのです。 ただ、誤解がないように、この厳しい批判の矛先を医師一般に対して私は向けるつもりはありません。良心的な医師を多く知っております。医師よりも医療制度の在り方と現代文明の在り方の方に問題があると思います。これは社会問題と文化問題であると強調したいのです。まあ、長くなりますので、これぐらいにしておきましょう。

  

哲学の観点からの考察

1)脳死判定という言葉は正確ではない。

2)個体(生体)の死と人間の死を区別されるべきである。

3)脳死の確認と脳死状態における医療処置の使用と脳死状態における移植は、別々の問題として扱われるように、問題整理が必要である。

4)国際的視野で医療資源の分配という観点と社会正義の観点から移植を考え直さなければならない。

5)死を見つめない文化科学技術の一人歩きによって操られている現代文明には自己破壊の可能性が多い。

6)多様性のある現代社会における人間としての(最低限の共通な)倫理の探求に務めると同時に、それぞれの宗教伝統にみられる生命観、死生観から学ぶばなければならないけれども、「世俗倫理」に対しても「宗教倫理」に対しても(両方の一人歩きや一面性や熱狂性を恐れて)哲学の方から「軌道修正」しなければならない。(ここにこそ、倫理上の諸問題に関する議論や対話における「解釈学的な哲学」が果たすべき司会や助けての役割がある)。

7)死はモメント(一瞬間に起こるもの)ではなく、プロセス(過程)である。

 

その説明…

1)脳死判定という言葉は正確ではない。

 脳死は死であると言うよりも脳死は生物学的な意味での生や個体の不可逆的生命機能の喪失であるといったほうが適切である。

 脳死は人の死であるかどうかといよりも、もっと広い意味での人間の死を捉えたい。脳死という言葉は端的に人の死と言ってしまうのは正確ではない。脳死状態の者は遺体だからといって、遺体を物体として機械的に扱えるわけではない。

2)個体(生体)の死と人間の死を区別されるべきである。

 臓器移植は、隣人愛の行為になりうるが、与える行為ではなく、奪う行為にもなりうる危険性があることを忘れてはならない。

 臓器移植を待つ患者に対しては、臓器提供者の愛他精神を十分に理解させ、人間的諸価値における臓器提供の意義と位置づけを確立しなければならない。移植を待つ患者が移植を受けられなかった場合に抱く心理、死の受容について配慮しなければならない。死の理由を提供者に帰してはならない。

 理論的には問題がすくなくても実際のやり方に関して疑問が多く生じている。 たとえば、必要な条件を満たしたうえで慎重に行われる場合でも、またそれが無償の愛の行為であることを認めたうえで、なお医療費の分配と公正の点から、もうひとつは人間観.死生観の点から、疑問がさけられない。

 死は個人の者だけではない。残された家族のものでもある。死に立ち会う家族にとって臓器と言う言葉自体は冷たい。

 種々の宗教において故人をしのぶ葬儀が大事にされる。(盆踊り、供養、仏教においても人はなくなってもある意味で人であり続ける。キリスト教においても魂のない遺体は単なるものではない)

3)脳死の確認と脳死状態における医療処置の使用と脳死状態における移植は、別々の問題として扱われるように、問題整理が必要である。

 脳死状態における臓器移植は、提供者から受容者への贈り物であり、無償の愛の行為として行われるために、提供者の自由な意志が欠かせない。ドナーカードをもたない脳死状態の者から、家族の同意があっても臓器を取ってはならない。脳死状態の者が明確にドナーカードで意見表示をしていない限り、臓器をとってはならない。移植医療は提供者なしでは成り立たないものです。提供するかしないか一人一人が判断して決めなければならないのです。そこで私たちは「する事ができる」ということと「しなければならない」ということとの違いに留意しなければならない。

 他の医療の場合と同様に、いやそれ以上にインフォームド・コンセントとプライバシーの保護について最大の注意を払う必要がある。密室での医療によって患者の尊厳が冒されることを避けるための情報公開の役割を最大に認めてはいても、それはあくまでも遺族に対する最大の配慮という枠内でしか行われるべきではない。

脳死状態と思われる患者が脳死診断をしても良い例かどうか(排斥項目など)を確認してはじめて脳死診断に入ることができる。脳死診断の確認があってはじめて脳死状態で機械につながれている者に対する今後の対応(措置を停止するか、いつするかなど・・・)について医療側と遺族側の(または必要に応じて第三者の助け手を交えた)相談に入れる。

 家族への最大の配慮をもって脳死診断と提供者の意思表明が確認された上で、移植関係の手続きに入ることができるが、第三者を含めた中立の立場の倫理委員会が見守る中でそれを行い、その過程において遺体に対する畏敬が欠かせない。

 提供者に対する救命医療と受容者に対する移植医療を明確に区別し、それぞれにかかわる医療チームなどは別々でなければならない。

 遺体を部品であるかのように取り扱ってはいけません。

 決して臓器を取りたいがために死の判定を早めるのではなく、死の判定を慎重に行ったうえで、臓器を採取するためにしばらくの間、遺体を活性のある状態に保っておく「ことができる」が、するかどうかは「人間的な判断」であることを忘れたくないのです。

 さらに、移植を担当する医師団は提供者の治療に当たる医師団とあきらかに別個のものでなければならないし、臓器売買もさけなければなりません。

 しかし、以上のような条件が守られてもなかなか多くの人の理解と協力が得られないのには訳がある日外ありません。医療に対する不信、行政側の効率主義、技術者の焦りと、病院の経営の在り方などに対する疑問が多くあり、臓器の部品扱いに対する抵抗も当然あります。体が部品の寄せ集めと考えられてしまって、命がモノのように扱われてしまうと困ります。

4)国際的視野で医療資源の分配という観点と社会正義の観点から移植を考え直さなければならない。

 実験的に行われれば、<無危害の原理>に従ってやらなけれなならないが、妥当な治療として認められてから、<自己決定権の原理と公正の原理>を尊重するような<慈善の原理>の適用にしたがわなければならない)。古代と中性において:体に対する不完全な所有権。 体は聖なるもの。奇形は偶然か悪によるもの。近代自由主義:体に対する個人の完全な所有権。臓器の提供は自由で、値段がつけられうるもの。社会主義的な傾向:公的所有権。

 提供される臓器が限られているので、受容者の選択が公正に行われる必要がある。必要な費用が莫大なため、その負担をどのようにするかを考える必要がある。また、全世界を視野に入れた医療資源の分配を考えると、無制限の臓器移植医療を勧めるのがだとうであるか検討する必要がある。

 受ける患者の選定基準には公正な分配がもとめられますが、期待を抱かせて新しい要求(needs)を作ってしまってはたしてよいのでしょうか。成功すれば、希望者は飛躍的に増えるけれども、提供者が限られていることは事実である。

5)死を見つめない文化科学技術の一人歩きによって操られている現代文明には自己破壊の可能性が多い。

 法令化と社会政策にこだわりすぎたバイオエシックスは医療の目標を見失い、人間の限界を忘れた。メメント・モリ(死を忘れるな)を今こそ思い起こすべきである。

 「足を知る」。私達は当たり前のように「足を知れ」と言われれば、結局「これぐらいで満足しろ」という風に受け止めるかもしれないが、ご存じのよう、この言葉にはもっと深い意味があります。つまり、「己を知れ」でたったり、「自分の限界をありのままに受け止めろ」ということです。私は医療の限界を謙虚に認めるように医療担当者にだけではなく、私達を含めてみんなに訴えたいのです。そこに「呼ぶ声を聞け」というBachのカンタタががあげられましょう。

 「病人よりも病気だけを、人間全体よりもその肉体的・生物学的な次元だけを重視してしまい、臓器を部品のように扱い、人をモノ扱いする」現代科学技術文明に内在している矛盾に気がつく必要があり、それは生と死をみつめる能力を取り戻す必要があると思われる。

 移植に対する違和感があるといわれるが、それは悪いことではない。

 欧米の人から「日本は遅れている」と言われると、おくれてはならないと日本人は焦るでしょう。しかし、今まで移植医療に関して日本人は慎重に検討してきたということがはたして遅れていると言えるのでしょうか。私はそう舌言い回しを使って日本人を洗脳したくないし日本人も当然それを嫌っているでしょう。実は私は一昨年までスペインのマドリッドで十年間講義してきましたが、移植医療の問題に関するスペインの法律を批判し、日本人から多いに学ぶべきところがあると言い続けてきました。スペインの法律では暗黙の提供が認められ、自分で拒んでいなければ自動的に提供者になることになっています。日本人には臓器提供に対して抵抗感があるということは、かならずしも悪いとは言えない。かえって医療の発達に伴う人間のモノ扱いの傾向に対して歯止めをかけるための助けとなるかもしれない。欧米に見られるように移植をめぐって営利的や利害関係がからんだ問題が起きてきている。日本はそれを取り入れるべきではない。

 人間学的考察から言えば科学技術が人間の生と死という領域に食い込んできており、現代文明に置ける技術と人間性、科学と価値観の関係が問われるようになった時点で、技術を産んだ人間が、その技術に基づく新しい欲望を産むので、新たな技術拡大が行われます。そこで、正反対の方向に向かう二つつの期待しょうじるのです。患者の生命を出来るかぎり救おうとする救命医療に関わりたい一方、新鮮な臓器を摘出したい移植医療の焦りも伺えます。「足を知る」と言わなければならないでしょう。さらに、移植医療は社会的・文化的な背景が入って来ます。日本人には遺体に対するこだわりがある。死ぬべき時が来たらあの世に帰ろう。(往生要集や和泉式部日記参照)。

 脳死移植医療が、通常の医療行為と根本的に異なるのは、ある生命を維持したり、健康を回復させる行為が、かならず〈他者の死〉を必要とする点にあります。

 現代文明において技術的に死期を引き延ばす方法はあるが、一体現代文化においてどのように死をみつめているのだろうか。死を見つめれば人間の限界を悟るであろう。

 日本初めての脳死移植のときの悪い印象:報道の仕方。摘出した臓器を運ぶアイス・ボックスを映像として映し出した取材の仕方に納得いかない。臓器はモノとして運搬される印象だった。そのとき家族はどんな切ない思いをしたのだろうか。まるでその人の死を待ち望んでいるかのような雰囲気には疑問を感じる

 移植が必要な子供が臓器提供者や資金を求めていると報道されると社会は急に好意的になる。

 人間の生と死にかかわる問題というのは、たとえそれが医療と言う科学的論争であっても、それぞれの国の文化、死生観、宗教観などを無視しては語れない。移植医療は社会的・文化的な背景が入ってくる。日本人には遺体に対するこだわりがある。死ぬべき時が来たらあの世に帰ろう。(往生要集や和泉式部日記参照)。

 他者の死。脳死移植医療が、通常の医療行為と根本的に異なるのは、ある生命を維持したり、健康を回復させる行為が、かならず〈他者の死〉を必要とする点にある。自分が死に瀕した時と身近名人が死に瀕したときとは違う。

 科学技術が人間の生と死と言う領域に食い込んできている。現代文明に置ける技術と人間性、科学と価値観の関係が問われる。人間の欲望が技術を産み、その技術もまた新しい欲望を産むので、新たな技術拡大が行われる。曖昧な気持ち。悲しみと喜び、期待と絶望。逡巡と決断。相反する感情や思いが同時に発生する。正反対の方向に向かう二つの期待:患者の生命を出来るかぎり救おうとする救命医療と新鮮な臓器を重視する移植医療。足を知ると言わなければならない。「食べ過ぎ、太りすぎ現象だ」。技術発達のため、死について「それを迎える」とか「おとずれさせる」のではなく、「決断せざるをえない」状況が生じる。科学技術の発達によって死が決断と選択の領域に入った。

6)多様性のある現代社会における人間としての(最低限の共通な)倫理の探求に務めると同時に、それぞれの宗教伝統にみられる生命観、死生観から学ぶばなければならないけれども、「世俗倫理」に対しても「宗教倫理」に対しても(両方の一人歩きや一面性や熱狂性を恐れて)哲学の方から「軌道修正」しなければならない。(ここにこそ、倫理上の諸問題に関する議論や対話における「解釈学的な哲学」が果たすべき司会や助けての役割がある)。

 無償の愛とか利他的行為とか連帯性とか言うような言葉はともすればきれいごとになってしまうおそれがあるでしょう。特に「臓器が足りないとか」、「臓器を早く取りたい」とかいう言葉が私の耳に入るたびに、どうもふにおちないところがる。いつのまにか臓器が交換可能な部品のように扱われ、遺体が物扱いされているような印象がぬぐわれません。

 公正な分配と言ってもそれは簡単ではありません。臓器売買が禁じられていても裏では売買が行われており、それに対する禁止の十分な保証があるかどうか懸念します。

 臓器移植を待っているこどもがかわいそうと言われれば当然同情しますが、その子供と同じようなケースであってもwaiting listに入れられる可能性がないだけではなく、その病気を持っているということさえ知らされ得ない貧しい地域の子供達がはたして何人いるのでしょうか。

7)死はモメント(一瞬間に起こるもの)ではなく、プロセス(過程)である。