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II アンコール時代末期の宗教改革



 
1 アンコール時代の王は神・仏の化身
  アンコールの王たちの出身地は、多くの場合地方であり、そこから攻め登って即位することが多い。初代のジャヤヴァルマン2世(802-834年)の場合も、ジャワ方面から帰国し、わかっているだけで4ヶ所点々と掃討のため渡り歩き、その後アンコール地方に拠点を定め、さらに各地へ征討に出かけていた。碑文からは王の后妃9名の出身地がどうも掃討地であった可能性が高いことが判明している。そして現在のプノン・クレーン丘陵上の寺院において転輪聖王(正義をもって世界を治める王)として即位した。さらに「土着の守護精霊の王の中の王」を創設して王の位格を神聖なものとして増幅させた。これをサンスクリット語では「デヴァラージャ(devar?ja=神々の王)」と載せている。こうした土着の精霊信仰をヒンドゥー教的な装いを借りて覆蓋することで、王権の神秘性を演出したものであろう。
もっと一般的な言い方をすれば、王は当時から神の化身と考えられ、地上と天空をつなぐ仲介者であり、地上における神として崇められてきた。王の神聖さは碑文で万能の守護者もしくはシヴァ神、ヴィシュヌ神の化身(同一視)と言及されている。そして王は神秘的なデヴァラージャ儀式執行および王の諡号を創設して、その神的な位格と精神的な優位性を裏付けている。
カンボジアにおける宗教は祭政一致的傾向を持っているとはいえ、次の3つの特徴がある。第一に、村人たちは精霊信仰・祖先崇拝・地方の守護神・地霊などの信仰を持っていたが、その神概念の間口が広く、インドから到来した神々が近似していたのでその途中で融合してしまい、異教の神々であることすら忘れ気づかないことがあったようである。長い年月をかけてヒンドゥー教の神々や仏陀までが何の違和感もなく土着の神々と同じ場所において崇められてきた。
第二に、東南アジアのインド化された地域ではヒンドゥー教の神と王の名前を組み合わせた神像を礼拝していた。アンコール王朝では王個人の名前と神の名前を併せて冠称した特別のリンガ(男根)や神像が礼拝されていた。ということはアンコール時代のカンボジアにおけるシヴァ派は必ずしもインドにおけるシヴァ派と同じではなく、サンスクリット語を使用しているとはいえカンボジアの土着の守護精霊を巻き込んだシヴァ派であった。仏教も同じであった。しかしながらこれらシヴァ派やヴィシュヌ派は王の帰依を得て巨大寺院や大都城を造り続けてきた。ジャヤヴァルマン2世即位の802年以来、土着の神々を巻き込みながらも立国の思想的基盤は大きくいえばヒンドゥー教であった。
第三に、アンコール王朝はシヴァ派とヴィシュヌ派が仏教と平和裡に共存し、一部では混淆的な箇所もあるが相互に寛容をもって認め合ってきたという。その延長線上に考えていくと、今回の廃仏はなぜ起こったのかという疑問が出てくる。



 
2 ジャヤヴァルマン7世(1181-1219頃)の宗教改革 -仏教を国教に-
  ジャヤヴァルマン7世は、アンコール王朝の中で最も多くの寺院を建設し、隣国との戦争に打ち勝ち版図を拡大した王である。空前のアンコール王朝の栄華をつくり出した偉大な王でもある。ちょうど日本の鎌倉時代の王にあたるが、その在位は40年間にわたり、その間は仏教優先策をとっていた。
12世紀前半までのアンコール王朝約400年の立国の思想はシヴァ派とヴィシュヌ派であった。それを証左するように、都城の中やその近隣を含めヒンドゥー教系の寺院が数多く建立されてきた。仏教も少数派ながら存続していた。そのヒンドゥー教で固められたアンコールの地において仏教寺院の建設および仏教の聖地への衣替は、実際にはジャヤヴァルマン7世が強権を発動して推進した一種の宗教改革でもあったと思われる。
王は従来からのしきたりを尊重し、信仰の主流であったヒンドゥー教のシヴァ派・ヴィシュヌ派を一部仏教寺院内に取り込み、混淆しながら大寺院をいくつも建立してきた。そこでは大々的に祭祀が執り行なわれていた。例えば彼の建立したプリヤ・カン寺院の配置を見ると、中央にローケーシュヴァラ(観世音菩薩)を安置し、北にシヴァ神、西にヴィシュヌ神、南には祖先の霊を祀っていた。しかし、その内実は仏教を国教的に扱い、ヒンドゥー教を仏教の下位においている構造であった。仏教寺院内外にヒンドゥー教の神々を併神するように配慮はしていたが、しかしこれは一種の宗教改革であった。王は国内各地に大きな仏教寺院をいくつも建設し、建寺王といわれるほど権勢を振るった。
ジャヤヴァルマン7世治下において人気のあった仏像は、先に述べたローケーシュヴァラ(観世音菩薩)像であった。像容は4本手を持った形をとり、たくさんつくられ、多くの寺院内に安置されていた。このローケーシュヴァラは、菩薩(悟りを求めるBodhisattva)であり、アミターバ(阿弥陀如来)の弟子で、師を化仏として頭髪の中に掲げている。この菩薩は人々を守り、その病いを癒し、全ての衆生に救いの手を差し伸べてくれる救世主であると考えられていた。当時のジャヤヴァルマン7世はどうもこの菩薩の仏教的諸行を自分の鑑にしようと考えていた。
そうした改革を促す仏教的思想を背景として、美術的にも彫像はその法衣を脱ぎ捨てて、神秘的な微笑を伴った明るい尊顔の蛍光を見せてくる。そして内面的な精神生活が全身からにじみ出てくるような造像法となった。彫像の重点が尊顔の表情や手の印相に置かれるようになった。さらに人物描写に迫真性を求めようとした新しい美術傾向も示している。そして像容の中に現存する王族の実姿を借用していく傾向を見せている。こうした意図は、図像の部位の解剖的な人間実像を探求し、最も美しい造形作品を創り出したのである。
この迫真性はこれまで長い間にわたり彫工たちが軽んじてきたものでもあった。



 
3 ナーガ(蛇神)上に鎮座する仏像
 

上智大学アンコール遺跡国際調査団が発掘した274体の仏像は、ほとんどがナーガ(蛇神)に護られて禅定する仏陀であり、この様式の仏像が往時流行していたようである。これらの彫像はクメール美術では特に馴染みが深く、仏陀が涅槃の境地に入るための7週間にわたる禅定の間に、滝のような雨が1週間降り続いたことがあったという。その時、龍王ムチリンダが地の中から現われ、とぐろを巻き7つの頭を大きく広げて仏陀を守ったという。
このナーガ上の座仏は、最初は10世紀半ば頃に登場してきたが、当時のヒンドゥー教神像から図像的な影響を受けていたようである。そうした図像の混淆的傾向は仏陀の髪型からも説明をすることができる。その髪型は伝統的な螺髪の髪容に代えて丁寧に編まれた細い毛で一つにまとめられ、本物のマクタ(頂髷)のように円錐形の髷覆いをつけ、ウスニーシャ(肉髷)を包み隠している。発掘された廃仏の中にはアンコール・ワット時代の様式を髪型に類似したものがあり、影響を受けていたのであろう。
また、多くの仏像の繊細な顔貌および優美な鼻梁はあまり馴染みがないが、しかしあごのところの中央部の凹みは親近感を感じさせる。この尊像の像容は、とても控えめな肉づきにもかかわらず、見事な迫真性を持っている。また仏像の中には王冠とマクタ(頂髷)が描かれている。今回地中から出土した座仏像の中には身荘厳の装飾を盛装したナーガ座仏があり、当時を彷彿させるものがある。
その当時の仏教の教理(理想)というのは、生きとし生ける者をはかなくむなしいもの(五欲)に対して打ち勝ったことである。そこには「ボディ(菩提・道)」があり、正覚を得ることができるのである。そして「滅びることのない王権」を掲げながら究極の勝利(解脱)へ向かうという。ついに永遠の安らぎを求めた境地に達するのである。これが修行に対する勝利(涅槃)へとつながっていくのである。
発掘された数点のアンコール・ワット様式の仏像に限っていえることは、宗教的伝統主義にのっとり、像容は簡素化されているが、細部にわたり装飾や身荘厳が描かれ、その顔貌は、晴れやかではあるが、その内面の精神生活を映し出してはいない座仏もある。こうした廃仏には優美さや穏やかさというものが感じられない。この王冠型髪飾りと「マクタ(頂髷)」というのは、もともと王族の飾りものにすぎなかった。類似した髪容はアンコール・ワット寺院の回廊薄肉浮彫りの中に描かれており、スールヤヴァルマン2世のかぶり物やヴィシュヌ神の図像も同じである。そうした宗教的伝統主義は彫像制作の美意識の中でそのエネルギーが形式化し、活力を失い技巧主義に走ってしまう危険性をはらんでいたのである。




 
4 バイヨン寺院に残る廃仏のあと -仏像狩り-
  なぜこうした仏像は廃仏の危機に見舞われたのか。仮説の域を出ないが、第一の理由はジャヤヴァルマン7世の逝去後(1219年頃)の政治事情のからんだ宗教問題が起きたからである。1220年頃登位したインドラヴァルマン2世(1220頃〜1243)は断片的な史料や寺院改造跡から、仏教徒もしくは仏教を容認していた王と思われる。したがって仏教が権勢を振るい主導権を握っていた期間は7世王とインドラヴァルマン両王を併せると63年間に及ぶ。
ところがその次に即位したジャヤヴァルマン8世(1243-1295)はシヴァ神を篤信していたと思われる。その結果、この王の統治下において反仏教運動が起こり、仏像狩りが行なわれたのだろう。しかしながらシヴァ派およびそれに賛同する勢力が、仏教優位の7世王時代も存在し続け、活動していたと思われる。何が反仏教運動のきっかけであったのかはっきりしないが、例えば王位継承などをめぐる権力闘争をきっかけに鎮静化していた63年間の反発がエネルギーとなって、今回の廃仏行為に走ったかもしれない。シヴァ派もしくはヴィシュヌ派の人々が国内の仏教寺院の仏像を打ち壊し、捨てたのではなかろうか。
ジャヤヴァルマン7世の創建のアンコール都城の中心バイヨン寺院が、ヒンドゥー教寺院に改造され、衣替えさせられたのはジャヤヴァルマン8世の時代であった。その証拠を今でもバイヨン寺院内に見ることができる。まず第一に往時中央祠堂に安置されていた3.6mの大仏座像が破壊され、中央祠堂の地下に埋められた(1935年に中央祠堂地下から発見)。おそらくその時にハリハラ神像と取り代えられたのであろう。また同寺院の柱・壁面の仏像浮彫りが鋭い石のみでえぐり取られ、代わりにヒンドゥー教の苦行僧座像が彫り込まれた。
ところがアンコール研究の泰斗G. セデスはジャヤヴァルマン7世以後のシヴァ派と仏教の対立に触れ、「寺院の壁画の仏教彫刻を組織的にそぎ落とし、その代わりにリンガやシヴァ派行者の肖像をはめ込んだ程度の抗議活動であった」と述べていた(C?des, G.: Les Peules de la Peninsule Indochinoise, Histoire et Civilisations, Dunod, Paris, 1962, p.209(邦訳:辛島・桜井・内田共訳『インドシナ文明史』第2版、p.279))。しかし、このセデスの延長線上においてあれほど大量の廃仏をどのように考えるかという疑問が起こってくる。