なぜこうした仏像は廃仏の危機に見舞われたのか。仮説の域を出ないが、第一の理由はジャヤヴァルマン7世の逝去後(1219年頃)の政治事情のからんだ宗教問題が起きたからである。1220年頃登位したインドラヴァルマン2世(1220頃〜1243)は断片的な史料や寺院改造跡から、仏教徒もしくは仏教を容認していた王と思われる。したがって仏教が権勢を振るい主導権を握っていた期間は7世王とインドラヴァルマン両王を併せると63年間に及ぶ。
ところがその次に即位したジャヤヴァルマン8世(1243-1295)はシヴァ神を篤信していたと思われる。その結果、この王の統治下において反仏教運動が起こり、仏像狩りが行なわれたのだろう。しかしながらシヴァ派およびそれに賛同する勢力が、仏教優位の7世王時代も存在し続け、活動していたと思われる。何が反仏教運動のきっかけであったのかはっきりしないが、例えば王位継承などをめぐる権力闘争をきっかけに鎮静化していた63年間の反発がエネルギーとなって、今回の廃仏行為に走ったかもしれない。シヴァ派もしくはヴィシュヌ派の人々が国内の仏教寺院の仏像を打ち壊し、捨てたのではなかろうか。
ジャヤヴァルマン7世の創建のアンコール都城の中心バイヨン寺院が、ヒンドゥー教寺院に改造され、衣替えさせられたのはジャヤヴァルマン8世の時代であった。その証拠を今でもバイヨン寺院内に見ることができる。まず第一に往時中央祠堂に安置されていた3.6mの大仏座像が破壊され、中央祠堂の地下に埋められた(1935年に中央祠堂地下から発見)。おそらくその時にハリハラ神像と取り代えられたのであろう。また同寺院の柱・壁面の仏像浮彫りが鋭い石のみでえぐり取られ、代わりにヒンドゥー教の苦行僧座像が彫り込まれた。
ところがアンコール研究の泰斗G. セデスはジャヤヴァルマン7世以後のシヴァ派と仏教の対立に触れ、「寺院の壁画の仏教彫刻を組織的にそぎ落とし、その代わりにリンガやシヴァ派行者の肖像をはめ込んだ程度の抗議活動であった」と述べていた(C?des,
G.: Les Peules de la Peninsule Indochinoise, Histoire et Civilisations,
Dunod, Paris, 1962, p.209(邦訳:辛島・桜井・内田共訳『インドシナ文明史』第2版、p.279))。しかし、このセデスの延長線上においてあれほど大量の廃仏をどのように考えるかという疑問が起こってくる。