TOP > 報告書
 

 

I 歴史を塗り替える大発見



 
1 アンコール文明は一日にして成らず
  アンコールとは「都城」を意味するサンスクリット語「ナガラ」がクメール語のなかで訛ってできた名称である。シェムリアップ地方に在るカンボジアでもっとも有名な遺跡アンコール・ワットは「寺院になった都市」、そしてアンコール・トムは「大きなマチ都城」という意味をもっている。こうした呼び名は、首都プノンペンの南に位置する「アンコール・ボレイ」のように、現代でもカンボジアの地名とくっついて合成語の形で使われている。
アンコール(クメール)文明とは9世紀から15世紀にかけての石造大伽藍を含む多くの寺院が建設され続けた時代をさす。しかしながら19世紀半ばに来航した西欧人たちが現地で見たアンコール文明の実像は、石材が崩れ落ちた遺跡群のみが目前に残り、それに併せて周辺の高床家屋に住む貧しい農民たちの姿であった。それは左右対称の壮大な大伽藍と豪華絢爛な彫刻とはあまりにもかけ離れた実像であった。
1860年にアンリ・ムオが煌びやかであったと思われるアンコール文明の廃墟跡を再発見して当時の西欧世界へ紹介したが、それが謎に満ちた失われた文明として人々の興味をそそったのであった。このアンコール文明については記録や史料が少なく、その後20年あまりはこのアンコール遺跡がどんな歴史を持った人たちの歴史遺産であるのか分からなかった。1873年にL. ドラポルトが遺跡調査隊を組織し、カンボジア各地の調査を実施した。同行した医師F. J. アルマンは現地で採取した碑刻文写本を収集品の一つとして雑誌に掲載した。それがライデン大学のH. ケルン教授の目にとまり、解読された。それは1879年のことであった。サンスクリット碑文の断片が解読されて、王の名前が判明した。このように、アンコール遺跡がいかなる内実の文明であったかを解明するきっかけをつくったのは碑刻文であった。
アンコールは、ローマ同様一日にして成ったのではない。東京都区内ほどの広さの約300万m2 に展開するアンコール遺跡群は、8世紀のアクヨム寺院から14世紀のマンガラールタ寺院(1309年)までを含む99ヶ所の大小の遺構がユネスコの世界遺産に登録されている。それぞれの石造伽藍や祠堂はその時代の王の権力の象徴であり、同時にそこには当時の時代精神が塗り込められていたといえよう。それぞれの王は前任者王の都城・王宮・寺院を再使用することをせず、篤信する神々のために競うように大きな寺院を建立した。そして16世紀に再度戻ってきたアンコールの王たちがアンコール・ワットの完成に向けて仕事を継続した。
現在の観光客はこのように約600年から800年の歴史が詰め込まれた遺跡群を一堂に会し、疑問と質問を発しながら驚き、まごつき、往時の繁栄を偲ぶのである。



 
2 103体の廃仏を発掘 -2001年3月の快挙-
  私たち上智大学のアンコール遺跡国際調査団は、国交のない時から22年にわたって、時のカンボジア政府と協力してアンコール遺跡の保存・修復・調査研究活動を行なってきた。1996年には、カンボジア人中堅幹部を養成するために現地に上智大学アンコール研修所を建設した。
1992年からはアンコール・ワットから東北へ約6kmのところにある12世紀末頃建立の仏教寺院バンテアイ・クデイ遺跡が研修場所として選ばれ、広い境内において通常の発掘と修復の研修が、ここ10年間にわたり続いてきた。そして2001年3月、偶然にもこの境内から103体の廃仏が発掘された。ちょうど通常の考古研修を実施している最中であった。日本では考古発掘の場合、あらかじめここに何かありそうだという当たりをつけて発掘することがあるが、今回は偶然の一致であった。それは私たちにとって発掘の実習を始めて10年目の快挙でもあった。そこは同遺跡の東参道の入口から30mも進んだところで、十字型テラスの手前にある北側小祠堂前から発掘された。仏像の大きさは大きいものでほぼ1.8mぐらい、小さいもので20cmぐらいまで大中小があった。青銅製の小仏2体も見つかった。
発掘状況から考察すると、深さが約2.5m、底面一辺が約2mの四角の穴が掘られ、底面の方に小仏や頭部など小仏が埋められていた。上の方に胴体など大型石片が投げ込まれ、そして土をかけながら突き固められたことが判明している。これらの廃仏は埋められる以前に頭部と胴体が切断されたらしく、同一固体に復元できるものは多くない。これら廃仏は約800年の歳月にわたり温度も湿度も一定であったため、保存状況は極めて良く、高貴で美しい尊顔を拝むことができる。これらの仏像の時代は11世紀から13世紀前半であり、その尊顔や身体装飾には11世紀のバプーオン様式やアンコール・ワット様式を一部含みながら大部分が13世紀のバイヨン美術様式に属し、三重のナーガ(蛇神)の胴体上に鎮座した典型的な仏像であり、ナーガが7ツ頭を大きく広げて仏陀を守っている。



 
3 千体仏石柱と171体の廃仏発掘 -カンボジア人研修生頑張る-
 

さらに今回2001年8月15日からの調査では、前回の103体の廃仏発掘現場に隣接した場所から、同じ廃仏171体が見つかり、座仏が四面に多数刻まれた千体仏の石柱も発見された。石柱は砂岩で高さ約1.2m、横幅45cm。一面あたり座仏が横に12列、縦に21列、計1008体が菩薩の集合図曼荼羅のように並んでいる。この座仏の一つの大きさは2.5cmである。
石柱に刻まれた千体仏についてはインドのアジャンタ石窟寺院の第7窟(5世紀)に見られ、敦煌の千仏洞(4〜10世紀頃)にもある。日本では唐招堤寺(759年創建)の廬遮那仏光背に千体仏が描かれている。
カンボジアでは千体仏石柱の発見は初めてであり、密教がかった往時の仏教の輪郭が少し判明してくる。碑文では密教系のタントラ教の経典が存在したことを伝えている。その点から推察すると千体の仏像を曼陀羅状に刻み、拝むことで功徳を積んでいたのかもしれない。美術史・図像から考察すると、12世紀第3四半期のヴィシュヌ神四面浮彫りの石柱(12世紀第3四半期)が類例としてある。この石柱には15段×17段、四面で1020体の小ヴィシュヌ神像が彫られ、千体仏石柱と同じ様式である。ヒンドゥー教系の美術様式からも影響を受けていたと思われる。またコンポン・スヴァイのプリヤ・カーンン寺院において発見されたローケーシュヴァラ(観世音菩薩)彫像には、その頭部から上半身にかけて千体仏に似た小仏が刻み込まれており、千体仏石柱と同様の宗教的な意味を持つものであった。
これまでにアンコール遺跡群の調査・研究・保存修復活動は、1860年のアンリ・ムオのアンコール遺跡紹介から始まり、旧フランス領インドシナであったのでフランス極東学院が独占的に行なってきた。しかしながらここアンリ・ムオから140年あまり経過するが、今回のように千体仏の石柱および274体もの大量の廃仏が発見された例がない。その意味で大発見といえるだろう。しかし13世紀の後半に廃仏の事件の背景を示唆した論文が、1999年にフランス人アンコール研究者クロード・ジャック(Claude Jaques)教授から提起されていた。これは大量の廃仏発掘を予見した論文ではないが、その示唆は興味深い(Jaques, Cl.: Les Derniers siecles d'Angkor, Comptes Rendus des Seances de l'Annee 1999 (Jan.-Mar.), Academie des Inscriptions & Belles-Lettres, Paris.)。
こうした大量の廃仏発見から言えることは、他の同時代の仏教系遺跡であるプリヤ・カーン、タ・プロームなどにも、廃仏が地中に埋められている可能性が高い。今回の発掘はアンコール王朝末期の歴史を塗りかえるほどの大発見といえよう。そしてこの廃仏をめぐって歴史・考古・美術・図像の諸学から新しい議論が提起されてくるだろう。廃仏発掘を手がかりに往時のアンコール時代末期の社会と文化を解明していきたいと思う。