Footsteps of the Quebec Missionaries in Japan
( 日本におけるケベック宣教団の足跡)
Richard Leclerc*
and Claude Roberge**
SUMMARY: The
year 1998 marks the hundredth anniversary of the coming to Japan of the first
Quebec missionary: Hé1ène Paradis, Sister Marie Beata, arrived at Kumamoto on
October 19, 1898. She was 24 years old when she arrived and stayed continuously
in Japan for 62 years until her death in 1960. She was a Franciscan Missionary
of Mary, and with three other sisters she founded the Biwasaki Tairo Hospital
for lepers. She was also the first superior of a home for old ladies near Seibo
Byoin Hospital, Tokyo (both of which still in existence). During this century,
Sister Beata was followed by hundreds and hundreds of Quebec missionaries.
Their contribution to Japanese social, educational and spiritual welfare was
outstanding from many viewpoints. Since the end of the Second World War, they formed
the largest Catholic missionary group. After presenting the life of Sister
Beata and giving statistics about her followers' activities, the authors go on
to make a preliminary social assessment of the prodigious efforts made by these
missionaries. Although a more thorough study should eventually be done, we can
conclude that in spite of the particularly difficult circumstances of their
lives, these sons and daughters of Quebec made a great impact on the Catholic
Church of Japan, and, by way of feedback, on their native Quebec as well.
1998年にケベック・カトリック宣教100周年が祝われようとしている。
ここに、日本の読者諸兄に、一世紀という長い期間に渡る素晴らしい宣教を紹介することは、時宜にかなっているであろう。
紙面に制約もあり、資料も膨大であることから、戦後の時期、つまり1946年から1996年までの期間に限定して述べてみたい。[1]
占領
第二次世界大戦の終焉とともに、日本の福音化の沸き立つような時期が始まった。かつてカトリックは、これほど好条件に恵まれたことはない。アジアのなかの日本列島は、ローマ教皇庁の特別な配慮により、フランス系カナダ人修道士(女)を最も多く受け入れた宣教の地である。
この苦悩の時期に教会は精神的オアシスとなり、その後日本人は教会の伝える平和のメッセージにますます関心を向けていった。教会の存在がいたるところで見られるようになり、多くの人々が辛い過去を埋め去る信仰の力に注意を払うようになっていた。この状況は、短期間で多数の改宗者を生み、また宣教活動の大きな飛躍を果たすのに、極めて好都合であった。
日本のカトリックにとって喜ばしい日々を迎え、教会内では、信者の驚くべき増加が期待された。しかし、そのような状況は、宗教が苦悩の時期に束の間の逃れ場となっているだけでは、生まれるものではない。歴史は、日本人が自信を回復した時には、教会の霊的支えが、再建途上国家の勃興の願いに合致した教育面での寄与ほどには、必要とされなくなった事を示している。
天皇がもはや神とみなされず、神道が国家信条とされなくなった国においては、秩序を失った国家よりも、聖職者が多くの問題を受けとめた。言うまでもなく、新しい権力やアメリカ政府は、悲惨さを取り除く修道士(女)たちの援助を歓迎していた。その時期にローマ教皇庁の呼び掛けによって、フランス系カナダ人たちは、廃墟と化した国に手を貸す冒険に旅立ったのである。
私は、「日本へまだ宣教師を派遣していない修道会の会員が、宣教にとってこれまでになく好い状況下にあるこの帝国に赴かれるように」との切なる教皇様の願いを皆様に伝えるようバチカンから託されています。特別に、教皇様の貴宣教団へのこの差迫った呼び掛けをお伝えし、私は皆様に深いご配慮をもってご検討下さるようお願いいたします。国が荒廃するという大惨事の後に、救いの道を求めている人々に、尊いキリスト贖罪を述べ伝えるため皆様のご協力を求めているのは、イエス・キリストの代理であられる教皇様であります。[2]
軍国主義の排除を意図するアメリカは、日本の社会に平和をもたらすものとして、またその西洋化に貢献するものとして、宣教師たちの来日を支援していた。教会の活動を制限する法的障害は取り払われ、戦争の間接収されていた修道院なども元の所有者に戻された。
カナダの国益を守るために、また日本との再開された外交を確実なものとするために、カナダ外務省によって東京に連絡本部が置かれた。この支援は59名のカナダ宣教師と、戦争の間も日本に滞在していた2人の一般人に大きな喜びをもって受け入れられた。[3] カナダは、日本政府に対して、帝国政府によって接収された不動産を教会に戻すように働き掛けた。その結果、戦争のあいだに損害を受けたり壊されたりした建物の補修のために賠償金を得ることができた。
自由の風が吹いているにもかかわらず、生活は快適というにはほど遠かった。数年の軍事行動とアメリカ軍の空襲によって、日本の生活基盤は灰燼に帰していた。食物、衣服、燃料の欠乏と銀行を通じての外国送金の規制が、弱い人々の生存に追い打ちをかけていた。こうした不安定な状況にもかかわらず、政治的また技術的変化によって、細々ながらも苦しんでいる人々に力を貸す宣教師たちの入国に弾みが付けられた。
航空の進歩によってカナダと日本のあいだの商業的航空路のサービスが始まり、これにより太平洋を挟んだ行き来が容易になった。数時間でカナデイアン・パシフィックのダグラスDC4型機は、昔の商船が一月かかった旅を終わらせてしまう。技術面での必要から何カ所か経由した長時間の飛行の後、見渡すかぎりの水田、景色の単調さを破る小さな村々が、思いがけず現われるのであった。その美しさが、列島を息苦しくさせている現実の悲しみから逃れさせてくれた。
東京の羽田空港の滑走路に最初の一歩を降ろすや、到着した者は、この国の運命を握っているアメリカ占領軍の現存をその目で確かめることとなる。生活条件は、旧軍隊の影響のかげはなく、発達途上国のそれに類似していた。不衛生と食物の欠乏によって病気が蔓延し、これが国内の組織の混乱にさらに困難を増し加えていた。
羽田から東京まではアメリカ軍によって回復された広い道路を通って20キロほどであり、燃えた建物の工業地帯を通過する。荒廃した風景である。•••昨年私が称賛したチュニスの遊牧民の原始的な小屋にも似たバラックが、道路や東京湾に汚物を流す腐った河に沿って、我々の眼前にまるで茸のように建っている。多くの人々が辛そうに道路を歩いている。なかには幼児をパプア人のように背負い、身体の前に何とも形容しようもない小さな車を独り押している人もいる。皆ぼろ着をまとっている。このような不潔さや、どうにもならない生活条件を目にすると、何故陸軍の将校たちがパスポートの他に、天然痘やチフスやコレラなどの予防接種の書類等を調べるのかが理解できる。[4]
宗教的とも言える愛国心に幻滅していた国において、カトリック教会のメッセージは、思いがけず出現した新しい社会の協和や意気込みと両立しているように思われた。キリスト教徒の熱意が勝利を収めたと見るや、戦時中に本国に送還されていた宣教師たちの大半が、中断させられていた仕事を継続するために列島に戻って来た。日本の人々や自分たちの仕事に対して抱いていた彼らの深い愛情が、それまで山積みされていた困難を押し退けていった。
ローマ教皇の呼び掛けに、11のフランス系カナダ人修道士(女)の宣教団が1947年と1960年の間に日本に根を降ろした。過去の経験に支えられて、神の「働き人」の重点は教育、社会事業、教会が日本の社会に根づくための教区での働きに向けられた。
布教活動の柱である修道女が多数、司祭たちの前途有望な仕事を支えるために上陸する。聖クララ会(1947)、厳律至聖贖罪主女子修道会(1950)、1es Petites Filles de Saint-Joseph(1951)の活動が宣言され、修道女たちが希望に満ちて到着する。聖母奉献修道女会(1948)、ケベック・カリタス修道会(1953)は、カトリックの学校組織の再建に、彼女らの教育知識を提供するために招かれた。天使の聖母宣教修道女会(1949)とオタワ愛徳修道女会(1960)の修道女たちは、社会事業に力を注いだ。
男性宣教師団の日の昇る国での定着は、数の上ではそれほどでもない。しかし、新たにやって来る宣教師たちは、ケベックの送り出す最もダイナミックなグループから派遣されて来た。1948年に聖ヴィアトール会、レデンプトール会、ケベック外国宣教会が宣教の基礎を築いた。3年後、キリスト教教育修士会が関東地方に到着した。
福音宣教か文化移入か
人々への福音宣教が派遣の主な動機ではあるが、この目標は文化面の事柄が理由で実りがなかった。カトリック信仰が、天皇を創造主の正統な継承者とする伝説の信じられている土地に根を降ろすのは難しかった。人々は自分たちの先祖を誇り、大半の人々は、唯一の神を崇めるという、この国の歴史とは無関係な礼拝を行なうことに違和感を抱いていた。このような状況下でカトリックの小さな共同体の存在は、相変わらず不安定であった。17世紀と同様に、20世紀においてもナショナリズムが極端に高揚すると、国はカトリック市民を帝国の権力に不誠実と見る。過去に見られるのと同様に、カトリック教徒は、集団のなかで異質の者が異邦人とみなされる画一的社会において信仰を隠すようになっていた。
…進展ははかばかしくなかった。神仏に跪く日本の老人たちは、現代的な教育やものの考え方に触れておらず、なかなか神々や仏から離れられない。ほんの僅かな人々が改宗したのみだった。老人たちにとって、キリスト者になるということは、日本人であることを止めることであった。現代の若い日本人の姿勢は変化し、より複雑となってきている。彼らは一般的に教育を受けており、なかには非常に高い教育を受けている者もいる。この点を念頭にいれて、宣教努力が積み重ねられていった。しかし、彼らにとって、来世のことを考える妨げや障害は、仕事への支障や生活への気掛かりであった。[5]
これらの歴史的な事情と、厳しい告解に縛られるとの人々の恐れが、カトリック信仰の布教を難しくしていた。平均的な日本人の生活の現実において、カトリックの規律は、物質的満足が支配的な社会においては守るに難しい。死の直前に、失うものも無くなった時に、洗礼の秘跡を受けるといった傾向がある。
数世紀をかけても、教会はせいぜい1パーセントの日本人に洗礼を授けたに過ぎなかった。1991年には431,633人の日本人がカトリックになっているが、1億2干3百万の人口の0.004パーセントである。[6] 西洋の精神的伝統と東洋の精神的伝統の一致の難しい社会では、カトリックが周辺的存在となってしまっていることは疑いない。この現実は悲観的に捉えられるかもしれないが、宣教師の貢献に心動かされた人々が、たとえ洗礼は受けていなくとも教会のもたらすメッセージに好意を表している点を差し引いて見ていかなければならない。
宣教団の教育と社会事業は、日本の様々な世代に著しい影響を与えている。外国との交流が長らく制限されていたこの国では、カトリックの学校は社会環境を整え個人的にも、また集団的にも豊かさを増し加えていける、社会環境を整える唯一の道であった。第二次世界大戦の後に、国際舞台で自らのアイデンティティーを求めようとする国においては、まさに唯一の道だったのである。
ローマ教皇庁にとって、補助事業は目標ではなく、異教徒を福音に触れさせる手段であったわけであるが、日本人は教会の資力を信仰生活よりむしろ物質生活を豊かにするために利用している。この逸脱は1960年半ばから増大した。急激な経済成長は、その結果として信仰の支えをあまり必要としなくなった国に、自信を回復させた。親たちにカトリックの私立学校を選択させていたのは、キリスト教の良いところを自分たちの子供に学ばせたいという願いより、良い教育を施したいとの配慮によるものだった。それらの学校で、キリスト者の生徒は1パーセントにも満たない。
宣教の場としての教会が、少数のカトリック信者の霊的幸福のみにしか影響をもたらさないという現実は、なんら驚くに当たらない。群れの外では、教会は男性の目に届くものではなかった。この父系社会にあっては、カトリック信仰は女性に浸透していて、信者の60パーセントが女性である。[7] しばしば、カトリックの真の思いや願いに関心の薄い人々の集まりにおいては、カトリックは単に日々の欲求不満を解消する手段となってしまった。
たとえ宣教師が多くの人々に訴えかけても、彼らの活動は結果として大都会の上流階級に影響を及ぼしたに過ぎない。この現象は教会がその力を安定させるために、エリートからの支援を受けようとしていた事を考えれば、偶然の結果とは言えない。修道士の来日以来、上流階級の人々をカトリック宣教の基盤とせざるをえなかったことによるであろう。この階級を仲立ちとして、教会はその有力者たちに輝かしい日々の到来の望をかけていた。
規律的にも、また管理的にも指導者階級はあくまでも神道である。この宗教は実のところ他の宗教を排した国教である。そこでカトリックは、この指導者階級の目を開かせることに成功しない限り、この国ではほとんど改宗者はのぞめない。[8]
ミッション・スクールに通うことで、次世代の指導者たちは、一流大学に進む準備をしながら第二外国語を学ぶことが可能になっていった。このグループは、カトリックの教義を霊的に不可解なものとして受け取っているにもかかわらず、それほど豊かではない彼らの同胞とは異なって、カトリックの日本の社会への貢献を目の当りに見ていった。宣教手段は、東洋の宗教では無視されていた心理的な必要を満たしつつ、世界に開く知的窓となっていった。宣教師たちが改宗を促す道具としてそれらの事業を利用しているのに対して、日本人の多くは宣教師団から知識と世俗の幸福を汲み上げるに留まり、キリスト教信仰に至る者の人数は僅かであった。
ただ、教育の分野で働いた宣教師たちは、日本の社会との関わり合いを拡げるのに成功した。収穫は、経済界への影響を無視できない学校において豊かであった。今日、経済界の上層部の人々、政治家、知識人たちはカトリックの学校で高い質の教育を受けたことを誇っている。ほとんどの修道士は、宣教が献身の聖い動機となっているのだが、環境によっては霊的生活から逸脱する者も出てきた。補助事業は、使徒召命を犠牲にしてしまっていたりもした。第二次世界大戦後の贅沢な宗教建築は、力を取り戻して豊かな実を誇示する日本の社会の風潮に聖職者が呑まれていることを示している。この動きは、物質主義価値観対する最初に来日した宣教師たちの超然とした生き方を崩すものであった。
経済的発展によって、修道士のなかには、物質的豊かさによって彼らの活動が正当化されなくなった社会のなかで、自分たちの役割の有用性を自らに問うような者も出てきた。日本人を信仰に導くために来ていながら、今日その目的が、列島の人々の関心事の前に薄れてしまったかのように見えなくもない。しかし、今や福音化はその予備段階の補助的事業を通過した。このキリストの精神の種を蒔くための準備的アプローチはさらに控えられて行くが、基盤は固まって来ており、そこからカトリックに対して門戸の開かれた社会が花開いていくであろう。
・・・たとえ一般の生徒が学校の基本方針や特に宗教行事に大きな関心を示さないにしても、愛を人々に与えられる「紳士」に、また困っている兄弟を救うために献身と犠牲の思いを発揮できる「紳士」になるよう彼らに求めることは、生徒たちに大きな影響を及ぼすであろう。[9]
職務を通じて、宣教師たちはキリストの価値である愛徳を広めたが、彼らは日常生活に、受け入れ社会における上流階級の外面を取り込んで行くことになった。日本で長年生活した修道士は、ケベックに戻るのが困難になってさている。「静かな改革」前にケベックを離れた修道士は特にそうである。たとえ彼らが自分たちを常にフランス系カナダ人と考えていても、また時として日本文化の欠点に批判的であっても、日本は彼らの心の中でいとしい第二の母国となっている。彼らは、ほんの短い期間ケベックに滞在することで母国とのつながりを保ち、極めて貴重なキリストの遺産を与えられた母国社会の変革を時折に知るのみである。
修道会の活動
「高い鼻の人」に対して用心深い人々の心をほぐすために採られた戦略は、教育的また社会的活動によって励ましを与えることである。この仕事は困難であるが、教区の仕事が果たし得なかった日本人家族とのつながりを築くことがでさる。そこで、各小教区に、幼少の頃からキリストの価値を教え込む幼稚園が、少なくとも一つあるというのも別段驚くに当たらない。
時として修道士(女)の仕事は、宣教の伝統的な手法とはかけ離れていると思われるような形をとる。表面上はそうであっても、彼らは日本人に外の世界に開かれた窓を与えることで、キリストの愛の共有と価値を広めている。医療の世話が求められている僻地において、20世紀初め、無料診療所の開設が人々に喜びをもたらし、福音宣教のための究極の道となっていった。
どのような事業も、無料診療ほど親しいかたちで、また好意的に受け入れられるかたちで未信者とのつながりを持つことは出来ない。実際、身体の具合を診ることで心に触れることができ、そこに然るべき時に実を結ぶ福音の種を播くことができる。[10]
鹿児島県でフランシスコ会と無原罪聖母宣教女会が、人数はそれほどではないが、カトリック信仰を広めるために諸々の活動を組織している。その幅広いプログラムの基碇は、その地区に散っている小さな宣教拠点への訪問である。この定期的な巡回で司祭やシスターは、何百キロメートルも奔走する。また受け入れ姿勢のまったくない地区にも行き、魂の救いのために働くこともしばしばであった。その労苦は彼らの宣教の決意を強めていった。
カトリック信者に村する導きの継続を安定させるために、司祭は信者の中から採用された要理教師たちの手助けを受けていた。彼らの使命は、司祭のいない時にも霊的生活を生き生きと守られるようにすることである。このような仲介者の助けが望ましいことは明らかである。外国人にとって日本人とのコミュニケーションは、日本に長年住んでいても難しい。信者の集団が大きくなってくると、教会が小教区の住民の大多数に近い場所に新たに建てられた。主任司祭と町なかのカトリック教会堂の存在は、たとえそれが慎ましいものであろうとも、みすぼらしいものであろうとも、信仰をもたない者を教会に導く強い力となる。[11]
ケベックにおけるのと同様に、種々の布教支援活動が宣教師たちの働きを支えた。それらの活動のなかで最も重要なものは、司祭やシスターの後継者を育てることをも考え合わせつつ、信仰を若い世代やその家族の中に広める学校であった。1920年代名瀬市(鹿児島)において無原罪聖母宣教女会が女子校を一つ管理した。市の要請で修道女たちに譲渡された敷地に建設され、多くの希望が学校のなかに漲った。
私たちはこの学校から良い結果の出るのを待っています。若い娘たちが、少なくとも4年間、宣教師や修道女に囲まれて過ごすのです。カトリックの教義や生活について自らの目で見て身につけた正確な観念は、彼女たちが教え込まれかねない先入観や誤りを防ぐ知識となることでしょう。そして次に、彼女たちが家族に、また多くの子供たちに素晴らしい影響を与えていくことでしょう。と言うのは、私たちの生徒の多くが教師になるからです。[12]
ケベック人が、日本の人々との堅い絆を結ぶことに成功した分野は、間違いなく自治体への奉仕の分野である。他の宗教と比較しても、教会は魅力的でなければならない。
礼拝式のような典礼に関する活動は多くの人を引さ付けず、むしろ補足的な企画が疑いのない成功をもたらした。それは教育や文化の分野であっても、社会活動や宗教活動の分野であっても、その控えめで熱心な貢献は、日本の社会の進歩に協力することで喜ばれ認められた。この貢献は、宣教活動の先駆者たちを除いて、その膨大な貢献を評価できないケベック人から無視されている。多くの日本人の受けた満足と充足は、長い年月の後に一般市民や公の機関が示す尊重の念と共に、彼らの働きや存在の有用性を証明している。
シスターやブラザーは、司祭の背後で信仰の伝播の補助として働いているのであるが、彼らの信仰生活への貢献は、1898年に日本に遣わされた最初の宣教師であるシスター・エレーヌ・パラディの来日以来なされた仕事を見るならば、議論の余地のないほど明白である。彼女は1875年10月9日にケベックのシャルルスブルグで生まれ、1960年に日本の琵琶崎で亡くなっている。女子修道会の貢献はあれらの勇気ある女性たちがいなければ日本の教会の発展はおそらくなかった、と思われるほどに価値がある。ケベック出身のメンバーをかかえる31の修道会のうち、22の修道会が修道女たちによって創られている。
宣教においても、聖職者の位階の中でのように、女性は男性の権力に従属している。1976年の「静かな改革」までは、聖職者と政治権力は、宗教と家族の発展に尽くす役をフランス系カナダ人男性に付していた保守的な思想体系に寄り掛かっていた。
そのような状況下で、女性は先祖の信仰と言葉を子孫に守り伝える聖なる召命にあずかっていた。神に身を献げる決心をし、地上における自らの幸せを放擲した女性達は、キリスト者の霊的、知的、身体的幸せに気を配るのに相応しい者になっていった。彼女たちは司祭たちの欠かせない協働者であり、「冷淡な未信者の心に消しがたい印象を残し、固く閉ざされていた扉を開く」適性をもつ唯一の人々であった。[13] 女子修道会には権力というものは与えられていないが、女子修道会が宣教の地で手にしている自治は、一般の女性の羨望であった。
列島のなかでの存在理由でもある小教区の司祭職とは別に、修道士は時間の多くを補足的活動に割いている。信仰につながるそれらは、宣教の強力な手段となっている。宣教活動の各分野に割かれている時間がどれほどであるかを正確に知るのは難しいが、表1はおおよその数を示している。
宣教活動の半分以上が教育を通して為されていることが確認されるが、驚くに当たらない。観想修道会を除いて、すべての修道女会は能動的に関わっている。小教区やその関連の仕事は司祭や修道院の活動のかなりの部分を占めている。
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表1.日本在住ケベック人の関係するカトリック修道会部門別活動 |
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|
<男子修道会> |
計 |
教育 |
社会 |
文化 |
小教区 |
|
イエズス会 |
299 |
149 |
8 |
2 |
44 |
|
フランシスコ会 |
140 |
21 |
6 |
|
42 |
|
ドミニコ会 |
40 |
3 |
4 |
1 |
22 |
|
ラ・サール会 |
22 |
18 |
|
|
|
|
聖スルピス会 |
12 |
9 |
|
|
3 |
|
聖ヴィアトール会 |
20 |
7 |
|
|
11 |
|
レデンプトール会 |
32 |
|
|
|
21 |
|
ケベック外国宣教会 |
27 |
|
2 |
|
18 |
|
キリスト教教育修道会 |
22 |
20 |
|
|
|
|
<女子修道会> |
計 |
教育 |
社会 |
文化 |
小教区 |
|
幼きイエズス修道会 |
325 |
210 |
25 |
|
|
|
シャルトル聖パウロ修道女会 |
188 |
130 |
|
|
|
|
マリアの宣教者フランシスコ修道会 |
360 |
146 |
103 |
|
|
|
聖心会 |
160 |
120 |
3 |
|
|
|
無原罪聖母宣教女会 |
33 |
22 |
4 |
|
2 |
|
聖ドミニコ女子修道会 |
82 |
58 |
5 |
|
4 |
|
コングレガシオン・ド・ノートルダム |
85 |
71 |
|
|
|
|
クリスト・ロワ宣教修道女会 |
60 |
15 |
39 |
|
|
|
聖血礼拝修道女会 |
23 |
|
|
|
|
|
聖母被昇天修道会 |
45 |
30 |
|
|
|
|
援助修道会 |
85 |
10 |
31 |
|
8 |
|
善き牧者愛徳の聖母修道会 |
30 |
8 |
11 |
|
4 |
|
聖ウルスラ修道会 |
66 |
52 |
|
|
5 |
|
聖クララ会 |
42 |
|
|
|
|
|
聖母奉献修道会 |
45 |
37 |
|
|
|
|
天使の聖母宣教修道女会 |
18 |
|
10 |
|
3 |
|
厳律至聖贖罪主女子修道会 |
69 |
|
|
|
|
|
ケベック・カリタス修道女会 |
18 |
15 |
|
|
|
|
オタワ愛徳修道女会 |
30 |
5 |
15 |
|
|
出所:カトリック中央協議会『1992年カトペデイア』より引用。
備考:1951年から1957年まで福岡の修道院で活動していたPetites Fillies de Saint-Josephの4名は含まれていない。彼女たちは後に引退している。
人々に精神面、医療面の支援をもたらす社会事業は、活動の3番目のランクに位置している。文化の面は最も下のランクに位置してはいるが、宣教活動に欠かせない部分である。これは、教育のように芸術が市民権を得ている国においては、神の言葉を広める独創的な手段である。
教育
1984年の秋に、ケベック州の首相ルネ・レヴェークが熱心に京都洛星中学、高校を視察した。このモデル校を視察するうちに、彼は若者たちを社会的問題の中心に置く必要性を感じた。
ルネ・レヴェークが、その設立の成功の秘訣を関係者に尋ねると、聖ヴィアトール会によって設立されたこの有名な学校の校長フランソワ・アラーは、「静かな改革」によってケベックで放棄された教育方針を適用しているのだ、と彼に答えた。首相は相手の率直さの前に唖然としていた。
宣教師たちの意見は、ケベック人が教会と日本の社会で特徴を出せるのは教育の分野であるとの点で一致している。人間形成に関しやや過大ながらも、彼らは人々の称賛を得ている。この点に関する最も有意義な貢献については、一言触れておく価値がある。これは、日本にもたらされた最も具体的かつ、最も具合の良い遺産であり、これらの名高い学校の発展は、ケベック人の経済面での貢献に依る。(付録1)
宣教師による教育の仕事においては、学校のエリート主義のために、僅かな日本人としか接触しないが、経済、政治、宗教界の多くの人物が、若い時の一時期を彼らの下で過ごしている。カトリックの学校建設の始まりは明治時代であったが、それらの日本の社会での評判は1950年代に高まった。戦後の諸条件と国を急速に再建しようとの人々の意志が、学校にとって都合良く働いたのである。新しい共同プロジェクトを首尾良く成し遂げるために、学校は豊かな資財を自由に使えたのである。
小教区の仕事とその関連の仕事が宣教の基本目的であるが、弱体化した国の再建の緊急性の前に、それは二次的なものに押しやられていた。戦争の若い犠牲者たちに助けをのべる必要性があり、力は主に幼稚園、学校、孤児院の設立に向けられた。
1945年に、私立学校においてカトリック主義の実践の規制が取り外され、学習プログラムに宗教教育を含めることができるようになった。しかしながら、悪い感情をもたれないようにとの配慮から、この事は正規の授業には一般的には組み込まれなかった。1941年以前のように、修道士(女)たちは道徳と倫理の原則を教えることを続けた。カトリックの教義に距離を置いている家庭それぞれの信仰を尊重した控えめなアプローチは、教会とキリストの憐れみの普遍的価値を伝えることができた。
これらの学校は親たちの関心を引いた。自分たちの子女に質の高い教育を与えることに熱心な家庭は、子供たちをこれらの学校に入学させようとした。学校の評判が上がるにつれて、卒業後には出世の道の約束されるような超一流国立大学において、その存在は認められるようになっていった。
教育が優先権を得ている国において、教会は日本人の熱望に応える学校を設立していった。大都市においてその要望は高く、学校側は入学希望者を断らなければならないほどだった。社会の優秀な人材の注意深い選抜とそこでの教育の質が、社会の中枢で感謝されるようになっていった。このことは、カトリックの良いイメージを広めることに役立った。意見を決定していく立場にある人々の間でよい評判を定着させるため、また列島における自らの将来に備え、聖職者がエリート教育と適切な選抜とに賭けていくのは当然である。
・・・大学は外交、科学、貿易を目指す者を指導していた。日本の多くの優秀な公務員、科学者、実業家は、彼らの子息を東京のカトリック中学、高校に進ませたがっていた。[14]
また私立学校は都会の中心から離れて、社会的に多様化している女生徒たちに照準を合わせていった。彼女たちは更に上の勉強をというのではなく、むしろ勉強の仕上げを求めている状況であった。
1945年以後は、多くの修道会が教育の分野に参入してきている。無原罪聖母宣教女会は、日本での活動を直ぐに再開した。彼女たちの再開は、その実現されたものから判断するならば、豊かに実を結んだ。彼女たちは、1949年の4月に開かれた福島県会津若松のサヴェリオ学園で、また1958年に設立された郡山の学校で素晴しい教育を提供した。
多くの私立学校のように、無原罪聖母宣教女会も文部省の補助金を受け、国の教育制度を採用している。しかし、そこでなされている教育は生徒に国際意識を植え付けるためもあり、カトリックの色合が濃厚である。毎年、例えばバザーといった活動を通じて、市民や生徒や修道士(女)が力を合わせ、学校の建設のために、あるいはフィリピンやアフリカのマラウィの子供たちの教育援助のために資金が集められた。[15] 散発的ながらも様々な活動を通じて、将来の世代の者たちが、明日の世界の建設に活発に、和やかに参加していった。
カトリックの学校によってなされる教育目標は、まずは生徒たちに日本の社会のなかにあって、立派に身を立てる備えをさせることであるが、生徒たちは自分たちを取り巻く世界に敏感である。彼らの学習プログラムは、外国との接触を図りつつ、外国の言葉と文化の習得に特に時間を割いている。ケベック人に管理されている学校では、カナダにおける言語状況を日本にも広めることに力注がれている。英語が一般的に力を揮っているにしても、フランス語は、モリエールの言葉のロマンチズムとその文化に引き付けられている女子生徒等によく選択される科目となっている。
理論的学習を実践に移すために、学校は生徒たちの海外旅行を企画したり、外国で勉強するための奨学金を与えたりして、「カルチャー・ショック」を与える手段を取っている。しばしばケベック、またカナダは、土地の広さや人口が北アメリカと著しい対照をなしていることもあり、異国情緒ゆたかな滞在先として特権的な行き先となっている。まず最初に受けるアングロ・サクソンのイメージに対し、多くの若者は、新大陸に紛れているフランスの生活や活力を見る機会を持つことになる。そのような旅行は、北アメリカの文明への窓として、外国での滞在に対する関心を喚起し、太平洋を挟んだ隣人としての理解を深める一助となる。
ケベックの修道士との交流によって、日本人はフランスの文化に夢中になりつつも、フランスではなく、むしろケベックでより高等の勉強をするようになる。多くの者が、宣教師から受けた影響により、勉強の地を選んでいる。
日本人のカトリック教会の普遍的生活への参加も、多くの場合日本在住ケベック人の存在が大いに影響している。列島の国際化に注がれた努力の反映で、今日、日本のシスターたちの姿がアフリカ、アメリカ、アジアの地のそれぞれの修道会の宣教団のなかに見受けられる。なかにはケベックにやって来て、神学や言語学の学びを一流大学で仕上げる者もいる。
聖母奉献修道会をはじめいくつかの修道会が、列島にカトリック主義を定着させようとのローマ法王の呼び掛けに応じ、1948年の6月6日に宣教団の第一陣が到着した。そして言葉を覚えた後、兵庫県の姫路に単科大学を開いた。更に、聖ウルスラ修道会は、東北地方の人々に身を献げていった。第二次世界大戦の後に、彼女たちは救助者として貢献した。1948年から幼稚園、小、中学校を仙台と青森県の八戸で始めた。
カリタス修道女会の教育活動は、他のグループの仕事を損なうことなく、日本においてケベックの活気の輝かしい成果の一つとなっている。このケベック・カリタス修道女会の神奈川県にある学園は、教育コースを二つに分け、二千人以上の女子を受け入れている。その教育は、英語とフランス語のコースのあることで知られ、競争の厳しい日本や外国の大学で、一段上の学習を可能とする国際的な規模の教育を喜んで受け入れる少女たちを引き付けている。
1953年に、カリタス修道女会は、シスター・リタ・デシェンヌに、教育を通してキリストの価値を広める宣教を東京に組織するよう委託した。彼女は、彼女の活動を支えるローズ・アンヌ・バイアージョンとグロリア・ボーリウと共に到着した。
彼女たちは第二の母国に慣れた1955年の4月に、学生たちを泊める寮を若林に設立する。そこには前以て修練室と作業室が付け加えられていた。6年後、経験を積んで、修道会は川崎に中・高の学園を建設した。この学園は、やがて幼稚園(1962)、小学校(1963)、短大(1966)まで広がるようになる。1980年の初めに、高等部が、横浜に設けられた新しい建物に移転した。この新しい出発が、カリタス女子短期大学でのフランス語学科の開設をもたらした。
25年間シスター・デシェンヌは、教育の仕事を引き受けながら、学校の将来を見守った。1986年4月、勇退する少し前に、日本への彼女の貢献は、昭和天皇より讃えられた。教育の長年の労に対し勲章が授与されたのである。同じような栄誉は、聖母被昇天修道会の青森と浦和の学校の校長であったシスター・アンリエット・カンタンにも与えられた。
キリスト教教育修士会はインターナショナル・スクールのセント・メアリー校(東京、1954)、さゆり幼稚園(横浜、1953)、横浜と静岡の聖光学院(1958、1969)によって同様の信頼性を築いた。これらの学校には、特に両親の関係(例えば外交官)で列島に住む外国人の生徒たちを受け入れているインターナショナル・スクールを除けば、日本人の生徒たちが通っている。インターナショナル・スクールはアメリカ生まれの生徒によって多く占められているが、70か国の生徒たちで成っていて、教育のなかのまさに多重文化のモザイク状態を呈している。[16] さらに、外国で生活した日本人の子供たちが、母国に再度溶け込めるようにとそこで学んでいる。
1951年に創立され、フランソワ・グザヴィエ・ポワトラによって、1968年の彼の事故死まで管理されたこれらの学院は、日本の社会に大きな足跡を残している。多くの卒業生が、国公立や私立の一流大学に進学し、このことが学校の評判を高めることにつながっている。今日、社会の様々な分野で影響力をもち、活躍している生徒たちが学園の門をくぐっている。なかでも最も有名なのは、列島でおおいに人気を博した音楽グループのオフコースのメンバーであろう。
この成功は一人の人間の単独行動で実現したものではない。その教育主義に忠実なブラザーたちによるよく準備された行動の結果である。ピエール・ロベールは、その活動カによって「山を動かした」貴重な協働者の一人である。彼はF・ポワトラの死によって中断されていた仕事を成し遂げ、聖光学院を創設する。彼は受け持っていた宗教の授業を、公開講座やラジオ講座のかたちにすることに躊躇しなかった。また列島の言葉を見事に習得したエルディは、1958年に早稲田大学の日本文学科に入学を許された最初の外国人であった.
ブラザー・グスタフ・ヴァションはラテン語の教育に身を献げ、1985年に東京都からその栄誉を讃えられた。レイモン・マルテルは、ブラザーたちの後継者を養成したことで有名である。彼は列島の諸小教区の信者たちから、召命に従って仕事をした者として認められている。ルイ・ジョセフ・レジョンドルに代表される幾人かの者たちは、英語を教えるのにコンピューターを使うなど、現代の要請に沿うよう努めている。ブラザー・ミッシェル・ジュトラも、同様に成人向けの電子工学の授業をするなど、そのモダニズムで有名である。
確固とした経験に立脚し、ラ・サール会は、1950年に鹿児島ラ・サール校を創立する。創立者のブラザー・マルセル・プッティは、ほぼ20年間この修道会のいくつかの学校の校長と地域監督宮の地位にあり、彼の日本国に対する献身によって天皇から報奨を受けた。鹿児島のこの学校は日本でとても評判である。某一流大学への入学試験の合格率は、他の有名高校に混じって5位である。
開校早々、600名の生徒の父母から初年度入学の申し込みがあった。募集人数は150名であった。厳しい試験の後、有能な受験生のみが選抜された。それらの生徒の中には、県知事の息子や鹿児島市長の息子など、地方の名士の息子などが見られた。[17]
ブラザーたちの輝かしい成果は、九州の地のみに止まらない。キリストの価値を広めることに配慮し、1960年函館ラ・サール校が開かれる。翌年、これらの学校を卒業し、首都で学ぶため故郷を出なければならない学生たちのために、東京に寮が建設された。歴史の町京都では、聖ヴィアトール会が人々の信用を得ることに成功した。1952年から、彼らは古都で男子のためのカトリックの最初の学校である洛星中・高校を手懸けている。この学校は評価の高い大学への進学準備の教育で有名である。
この学校の評判は、選抜された生徒と施されている教育の素晴らしさを映したものである。毎年50から60名が京都大学に入学している。競争相手の他の学校では7、8名のみが入学できる状況においてである。[18]
この成功は生徒たちの人格面、学業面での育成に向けられている深い配慮の上に築かれたものである。一人の人間としての価値の増大は、教育の目指す目標である。この学校は、7000人の卒業生を輩出し、その10パーセントが医者になっている。卒業生は、ほとんどキリスト教徒ではないが、彼らの母校を誇りに思い、寛大な心で学校に寄付をしている。そのような支えもあって、近代的な設備を享受し、洛星はつつがなくその務めを果たしている。
福岡のサン・スルピス大神学院
1947年に、ローマの宣教省が福岡と東京の神学院を日本の聖職者養成センターとして指定した。福岡の神学院は九州と沖縄の神学生を受け入れ、東京の神学院は列島の他の地区の神学生を受け入れた。戦争により1943年の12月に福岡の神学院の活動が停止させられたため、日本の聖職者の養成に大きな影響が出た。ケベックでの長い休息の後1946年に、指導に当たる司祭たちは、彼らの活動を続けるため日本に戻った。
1948年に始まる新しい時代は、楽観的な見通しのなかで開かれた。聖スルピス会の神学院の椅子に68名の生徒が着席して、授業は再開された。[19] すでに確立された信仰の伝統によって、福岡の神学院は、代々カトリック信者である者たちを多く引き付けた。数か月後、収穫は豊かであった。司祭希望者たちはモントリオールの神学校で、その修業を終了することとなった。
先々の問題処理に不安を抱いていた神学院は、1948年7月28日に、教皇庁から大神学院の地位を得た。195l年3月、聖スルピス会員は、日本政府に属していた土地に新たに建てられた建物に移った。新任の教師たちが、修道院長ガストン・オブリの指揮の下に参画して行った。
大神学院の良き指導にもかかわらず、卒業資格はカトリック教会外では長年認められなかった。この状態を改めるために、協定が東京の慶応大学と結ばれた。1963年から、福岡の神学課程に従いつつも、神学生たちは学位を通信教育で得る事ができるようになった。彼らは文部省に認められた卒業証書を手に入れ、学業を終了することができるようになったのである。このことは、国家資格が高く評価される社会において、聖職者がそれなりの地位を得る助けとなった。
この司祭養成校の貢献は実際的である。というのは、日本の教会の位階に就く多くの聖職者を養成しているからである。これらの聖職者の幾人かはケベックで学び、フランス語を習得した。
聖スルピス会員は、教育の分野において活躍し、多くの知的な業績を残した。会員たちは、大部分は日本語で書かれたものであるが、300以上の記事を著した。それらはアジアやヨーロッパや北アメリカの雑誌に掲載された。それに加え、20冊ほどの書物も著されている。
聖書学の専門家であるゼノン・イエールは、特に多く著している者の一人である。8年もの間困難な仕事に専心し、彼は、ドミニコ会員で宗教書専門のヴェリタス書院社長のジャック・ルデュックの着想によるプロジェクトを仕上げた。1973年にフランスの神学者グザヴイエ・レオン・デュフユールの著した『聖書神学用語辞典』の日本語訳の第1版が上梓されたのである。ドミニコ会のこの出版社がその活動を止めた後は、辞典は三省堂によって出版された。この辞典は、戦後に共産主義に関する著作物の出版の中止を検討していた出版社社長の歓迎するところでもあった。そして販売されるや、プロテスタントやキリスト教徒でない人々の間でも好評を博した。
イエールは、日本語の聖書編集にも貢献し、それは初版から6年で百万部以上が販売された。このプロジェクトは1969年に始まった共同訳聖書の翻訳委員会の下で進められ、1987年に完了した。ゼオン・イエールは10人からなる出版委員会のメンバーの一人である。その委員会には11名の専門用語担当者、45名の翻訳担当者、5名の文章校正担当者、8名の聖書記事検査担当者、4名の秘書が加わっている。出版社三省堂は、年間販売30万冊にのぼる日本で最も注目を浴びた書籍を出版したとあって、得意の絶項であった。キリスト教徒でない人々向けに販売された事も手伝っていた。主にミッションスクールによって購入された。イエールは休むことなく、1992年に日本語の聖書の用語索引の編集を、また1993年には情報媒体による初めての聖書出版を監督した。
大学教育と学術の普及
ケベック出身の修道士(女)たちの多くは、教育者として大学で教えるとともに、学術面でも日本に貢献している。1928年からドミニコ会員の数人がフランス語圏の出身であるということで、東北大学(仙台)で彼らの母国語を教えるよう招かれた。戦前の大学教育に参加したフランス系カナダ人が持つ唯一の経験である。
1947年7月に生徒の視野を広げるために、京都大学が、卒業生の一人であるヴァンソン・マリー・プリオ神父に中世の思想を講義するよう依頼した。聖トマス・アクィナスの著作を含むこの授業には百人もの生徒が集まった。そのうちの5人がカトリック信者であった。[20] これは1967年まで彼に任せられた特権であった。
プリオ教授は新しい世代の学生たちに、(そのうちの幾人かが日本の一流大学で中世思想の有名な教授になっているのだが)、そのような学生たちに貴重なメッセージを伝えた。彼の精神面での、また奨学金など経済面での支えで、勉学が可能となった学生もいた。宗教学に興味をもつようになった学生もいた。
彼は、国立大学の歴史のなかで、教育の任に着いた数少ない外国人の一人である。聖心会のシスターであるヴァレリー・メタイエーは、彼と同じ様な特権に与っている。1950年から1955年まで、彼女は、東京大学で言語の授業を担当した。
プリオ神父は、京都大学の哲学科での中世思想の講座の開設に貢献しているが、1945年には、中世思想研究専門のセンターである聖トマス・アクィナス研究所を創設してもいる。そこは、彼の弟子たちにとっての集会所でもあった。その職に就いている間、教授は聖トマス・アクィナスの著作の翻訳の監修に関わった。この膨大な計画は、日本の文部省の財政援助を受けた。
1950年にケベックの宗教書の翻訳に関わっていたフィリップ・デロリエ神父は、九州大学(福岡)で中世思想の講義をするよう依頼を受けた。誠意にあふれる授業の5年後、ルイ・べリヴォ神父が、先任者の手懸けた仕事を受け継ぎ、1976年まで続けた。
また、ゼノン・イエールは日本の学術会のなかでも足跡を残している。彼は日本列島の隅々へ知識を伝達した。1967年から1973年まで、この聖スルピス会員は、愛知大学(豊橋)で教鞭を取った。なお1963年から、プリオ神父が創始者の一人でもあり研究者の集まりでもあるキリスト教研究会の活動に参加している。
ドイツのイエズス会員によって設立された上智大学(東京)は、それぞれの分野で著名な二人の教授を迎える。コンラッド・フォータン神父は日本でのカナダ研究の先駆者の一人である。1951年から1993年までのフランス語の講義に加えて、カナダセンターの創始者であり、日本の読者に向けてカナダに関する書物を数多く著している。奉職の期間中、彼は母国の現実を学生たちに知らせるために、ケベックヘの団体旅行を幾度か手懸けている。
彼の同僚でもあるフランス語言語学の教授クロード・ロベルジュ神父は、数多くの学術研究論文を発表している。また日本ではあまり研究されていない領域の書物や辞書を著している。さらに彼は、聴覚障害者のために、話し言葉の獲得方法の改善にも取り組んでいる。
他にも著名なケベックの学者たちがいる。日本語の公教要理を著したフランシスコ会員のミッシェル・シャレット神父や宗教書を数々翻訳したラ・サール会の創始者であるオメール・リュエル神父の名を記しておこう。
社会事業
物不足に苦しむ日本が、健康を害した人々や貧窮に苦しむ人々への教会の援助活動を受け入れたことは、驚くに当たらない。政府の活動は、必要に応じて交付される補助金の枠に止まっていた。
戦争により多くの家族が崩壊させられたため、クリスト・ロワ宣教修道女会は、何十人という路頭に迷った子供たちを南桜井(埼玉)の聖ジョゼフ孤児院に迎え入れた。その施設で家族的な雰囲気をかもし出すために、創立者のジュリア・ゴダンとアントワネット・フルニエは小さなグループに子供たちを分けた。母の代わりとなる修道女の監視のもと、子供たちは自分たちだけの部屋を自由に使った。この運営の仕方は政府の目を引き、日本の孤児院全体に広がっていった。数年後、シスターたちは、子供たちが、海辺で陽を浴びる日々を満喫できるようにと、神奈川県に「夏の家」を買った。
横浜の司教の請願に従い、シスター・ゴダンは、小山(静岡)に癩病患者のための復生病院を再建する仕事にも関わる。パリ外国宣教会によって、1889年に建てられたこの施設は、戦争による後遺症に悩む人々を収容した。この建物を改築するため、彼女は資金の獲得を目指し、アメリカにも赴いた。
この会のシスター・ルシェンヌ・ジャックのようなメンバーたちは、日本の医療の刷新の面で活動した。彼女は、結核や癩病を根治する医薬を輸入し、患者に村する治療を一新した。西宮(兵庫)のクリスト・ロワ病院での結核患者の治療に用いられた技法は高く評価され、他の地でも採用された。この旧日本軍の病院は、大阪の司教の請願にて取得されたもので、日本の病院システムに少なからぬ影響を与えた。というのは、そこにおいて新しい治療方法が試みられ、多くの患者がそれを望んだからである。この病院はその後、経済的な負担が問題となり、1973年に兵庫医大に譲り渡された。
1961年にクリスト・ロワ宣教修道女会のもう一つの事業が生まれた。聖マリア総合病院が小山の癩病院の隣接地に建設されたのである。さらに南の奄美大島(鹿児島)では、シスター・ジョルジェット・クーチュールが、長年のあいだ精神的に障害を負った人々のためのセンターを運営し始めた。このセンターは1965年に設立されている。
仙台では、聖ドミニコ女子修道会のシスターたちが、捨て子やアメリカ兵と日本人女性との束の間の関係で生まれた子供たちを受け入れる孤児院に、多年のあいだ力をそそいだ。この施設は、公的機関に支えられて、人々が目を向けたがらないような子供たちを引き取った。1990年の初めの頃には、この孤児院は混血の幼児たちを受け入れるということはもはやなくなったが、その存在は今も意義がある。シスターたちは、家庭の崩壊で行き場のなくなったり、親に見捨てられたりした2才から18才までの約80名の子供たちを見守っている。彼女たちは、彼らの苦しかった過去を慰めと教育によって拭おうとしている。同市では、またラ・サール会が、地方自治体からの補助金を得て孤児院を運営している。
もう一つの活発なグループであるケベック外国宣教会は青森地区にある。司祭たちは小数区を設けて幼椎園、障害者や老人のための施設やセンター、そして癩病院を一つ運営している。また、戦後間もない頃の日本の景気を利用していた高利貸から農民を護るために設けられた金融機関を忘れてはならない。
1950年代の10年間は、多くの援助者の到着で、社会事業面での活動が拡がった。結核患者や癩病患者が多く、また孤児のための避難所がなく、緊急必須の働きが求められていた。日本人がそれらの活動を引き継ぐ1970年代まで、司祭たちは東北に集中していた。
この時期より、ケベック外国宣教会の宣教師たちは川崎、仙台、東京に散り、日本の教会の管理する事業に参加し始めた。彼らは様々な分野で、経済の目覚ましい発展の結果ないがしろにされた人々を助けた。無一文の人々や外国人労働者たちは、カトリックの事業で重要な対象となっているが、彼らは、繁栄した生活のなかで取り残された数々の社会問題を、恵まれた人々に突き付けていった。実際、路傍で独り生きているというような落後者は、経済発展に心を奪われた社会の注意を引くものではなかった。
ラヴァル大学で社会福祉の学位を耽ったロベール・ヴァレは1968年に弘前(青森)に重度障害の子供たちを昼間預かる施設を設立し、5年後に障害のある老人のための受け入れ施設を設立した。1963年に彼は、日本の庶民金融機関ケース・ポピュレールの設立に加わった。
1980年にヴァレの後を継いだシャルル・エメ・ボルドュックは、ヴァレの道を辿り、1981年に健常児と軽い障害児を一緒に預かる託児所を建てた。1985年に重度障害の青年たちを昼間預かるセンターを設立した。
これら4つの施設は、同じ土地に在り、一つの小さな共同体を形づくっている。そこには年令も障害の度合いも様々な200名が暖かく、互いに助け合い、補い合って日々一緒に暮らしている。1989年からマルク・ラフォルトが、この素晴らしい社会事業施設の管理に当たっている。
文化
教育のように、文化も宣教の働きのなかで一つの役割を占めている。
宗教心を表現するために芸術の道を選ぶ者は少ないが、それを行なった人々は、素晴らしい遺産を残している。シスター・ジゼル・ドルアンはその一人である。1934年に聖母被昇天修道会の設立を手助けしたのに加え、40年間彼女はピアノとヴァイオリンを教えた。彼女の貢献は、青森県知事から表彰を受けるところとなった。高名なフランス人ピアニストの弟子であるアルフレッド・コルトを、彼女は青森に迎えることができた。1952年11月1日、2千人の観客が明の星学園創立15周年を祝うコンサート会場である講堂に詰め掛けた。[21]
1953年に来日したアルベル・ジラール神父は、日本の文化と哲学に興味をもった。上智大学で学んだ彼は、1988年の突然の死まで、彼の愛してやまないこの千年以上の歴史をもつ文明の扉を開くことになる。日本人の魂に入り込む手段である文学に心をひかれたこのフランシスコ会員は、能を完璧に演じ、指導者としての免状を授与されたほどであった。能は、彼にとって、日本の抒情的な劇への関心を満足させてくれるものであり、また福音をひろめる手段でもあった。ケベック外国宣教会のマレセル・ベランジエのように、彼は大変器用に書もこなした。
ギル・キャロンも素晴らしい知性の持ち主である。彼はケベック外国宣教会の司祭でコレージュ・ド・フランス(パリ)と東京芸術大学で芸術の才能に磨きをかけ、宗教芸術の専門家となった。1960年に日本に定住して以来のこの宣教師の功績のなかには、教会を飾る絵画、彫刻、ステンドグラスや個人の輝かしいコレクションが含まれる。
日本での視覚芸術界に著しく影響を及ぼしたケベック人はおそらくガストン・プッチであろう。若い頃より絵画に情熱を燃やし、1959年の叙階の後は海外に滞在することになり、そこで彼の芸術に磨きをかけていった。日の昇る国との出会いは、この修業期間のことで、日本の級友の一人が、彼に日本の文化について手ほどきしたのであった。その魅力に取りつかれた彼は、院長たちに日本での宣教活動に参加したい旨を申し出た。このシャウィニガン市民は、1961年1月に東京に居を構え、その後日本芸術の刷新に参加したことを誇りとしている。
来日して直ぐに彼は、言葉と書道と墨絵と版画の学びに専心した。偉大な師のそばで経験を積み、彼は1966年にアトリエ・プッチを設立する。ケベックではあまり知られていないが、彼は浮彫、版画の専門家であり、宗教芸術の分野でカトリック教会の装飾に協力している。このドミニコ会員は多くの展覧会に参加し、書物を著わし、自らの作品をカナダのジャン・クレチアン首相や高円宮などの収集家に売り渡しており、国際的な評価を得ている。今日、彼の作品は、北米やヨーロッパやアジアの多くの美術館に展示されている。
小数区の活動
宣教は19世紀末から日本でのケベック人の活動を正当化するものである。教育、社会事業、あるいは芸術という間接的な方法によってであるにしろ、宣教師たちは、人々がカトリックの信仰に導かれることを切望している。改宗は初期の頃、外国の宗教ということで人々は尻込みし、進展ははかばかしくなかった。日本人の気持ちを掴むために、彼らの期待にそって一般信徒による活動が展開された。これらの働きの中立的な性格を梃に、教会は、その影響を社会に巧妙に拡げていくよう努めた。すべての教会が信仰の伝播に参加しているなかで、ある教会はそのエネルギーを黙想に向けていた。
修道院の不足を補う目的で、聖クララ会と厳律至聖贖罪主女子修道会は、キリスト教徒になるのに不安を抱いている多くの日本人の霊的必要に応えるために、祈りの家を設立した。ヴァリーフィールドの女子修道院長やポール・エミール・レジェ枢機卿やアルフレッド・ラングルワ司教の支援を受け、1947年8月に聖クララ会によって一つの祈りの家が東京に建てられた。この仕事は4名の修道女によって開始された。ささやかに始められた家であるが、1962年には新しく建て変えられ、人数も16名になった。1950年6月にまず鎌倉(神奈川)に設立された厳律至聖贖罪主女子修道会は、祈りに専心している。日本に根を降ろして7年後、祈りの家が長崎に建てられた。1964年3月に彼女たちは3番目の地を上諏訪(長野)に拓いたが、数年後に閉じられた。この閉鎖に辛い思いを抱きつつ、シスターたちは、二つの新しい修道院に移る。一つは茅野(長野)で、もう一つは西都(宮崎)である。
司祭の不足に悩む日本の教会の必要に応えるために、また、信者のそばに常に司祭が伴って居られるように、3人のレデンプトール会員が、1948年に鎌倉に住むことになった。武士の建てたこの古都は、東京地区の宣教の拠点であり、7年後に副管区の地位に上げられた。そして6つの教区が生まれた。鎌倉、東京、大船(神奈川)、長崎、岡谷(長野)、上諏訪である。レデンプトール会は教育、文化、社会事業の分野で活動しているが、彼らの活動を豊かなものにしているのは、小数区とそれに関係する仕事である。司教の要求で、彼らは託された小教区に深く関わり、宗教儀式と聖書教育に身を捧げていった。
カトリックの運動
キリストの価値を永続させることに身を捧げ、カナダ青年カトリック連盟を範としている諸グループは、子供たちに神の言葉を植え付けるために教育界に基を据えている。フランシスコ会は、一般の活動を通じて、若いエネルギーをカトリックに導くために、この方法により、鹿児島の地に賭けている。
1920年代に、若者たちに対して取られた改宗活動は、戦争の後も続けられた。以前にも増して、共産主義が若い世代を誘惑しているとの恐れが、国粋主義者の敗北に帰した国の教会のなかに拡がった。教会は悲嘆に暮れる彼らを福音に向けさせた。
カトリック青年労働の組織は、フランス系カナダ人をモデルとして根を降ろしていった。しかしながら、キリスト者の人数は減り、運動は未信者の労働者たちに手を差し出していかざるを得なかった。この組織は、共産主義と物質主義の渦巻く社会のなかでキリストの価値を広めることに専心していった。さらに、そのメンバーのなかには、教会によって強く勧められた価値とは相反する無神論主義者たちの集合である労働組合で戦う者もいた。
この組織は、社会への働き掛け(例えば売春防止)の運動の輪に、物質主義にすっかり目を奪われた若者たちを集めることを目指した。新聞の発行や定期的な活動は福音化の有効な手段であった。1957年、このグループは、幾つかの大工業地帯に出て行った。その結果、毎年300名はどの若者たちが改宗した。[22] しかし、その会員たちの善意にもかかわらず、この活動は創設者たちの目的を達成することはできなかった。批判的にわずかな影響を与えたのみであった。
このような背景のなか、勉強のために村を離れた者たちを世話する宿舎が幾つか建てられた。1954年にベルトラン・ドルアン神父によって建てられた新宿(東京)の学生のための家は、その一例である。彼の真の目的は、カトリック学生たちを首都の殺伐としたなかにあっても、キリスト教の環境のなかで育て、神の言葉を永続させることにあった。他の大学都市(例えば弘前や仙台)において生まれた宿舎のように、これらの住居は若者たちの勉強の場であると同時に、彼らの霊的生活を正すことの出来る集会場であった。
1966年この働きの指揮は、アルチュール・ボーリウ神父、ルイー・ロラン・ノレ神父、ロベール・リシャー神父に委託された。この活動的なトリオによって、ドルアン神父によって吹き込まれた精神は、宣教と学問の両面で、学生たちを豊かにすることを目指した活動の支援を通して、さらに伝えられていった。
また、修道士たちは、彼らのメッセージに対し、日本人に関心をもってもらうために、現代的コミュニケーション手段を用いた。
仙台では、「良き牧者運動文化センター」が、ケベック外国宣教会のロラン・ジョリコール神父によって1969年に設立された。彼は、京都にて宣教のために同様の運動を興していたジェームズ・ハヤット神父の感化を受けている。ラジオやテレビの放送を通じて、毎週、センターは日本全国に福音を述べ伝えている。この活動を経済的に支えるために、語学、花道、茶道、書道を教える教室が開かれた。またボーイスカウト運動が、1974年以来盛んになっていった。
総括
ケベック・カトリック宣教団来日100周年は総括の時である。いろいろな事が思い浮かぶが、結局のところ、日本の姉妹教会に対するケベック教会のたくましい支援努力は、どのように捉えられるべきであろうか。その支援は、いくつかの点で正当化される。
―ヨーロツパ諸国と異なって、ケベックは第二次世界大戦で被害を受けていなかった。その時まで無傷で、かつてない繁栄を享受していた。また、軍部の喧伝による反アメリカ感情のような反ケベック感情が日本に無かった。
―ケベックの多くの修道会はフランスにその本部や姉妹管区をもちそれらがすでに日本に基盤を築いていた。日本に建てられたフランスの宗教団体を支援するよう、ケベックの第一団が赴くという事は、極自然であった。聖ドミニコ女子修道会、シャルトル聖パウロ修道女会、マリアの宣教者フランシスコ修道会、幼きイエズス修道会などがこれに当たる。
―1936年、ケベックのドミニコ会士が仙台の司教に任命された。ジョゼフ・ルミウ神父である。[23] 自然の成り行きで、司教はケベックにある修道会に、彼の司教区に手を貸してくれるよう求め、修道会員の来日を要請した。ラ・サール会、無原罪聖母宣教女会、コングレガシオン・ド・ノートルダム、聖母被昇天修道会、ケベック聖ウルスラ修道会がこれに応じた。
―終戦時、多くの修道会が中国に修道会員を抱えていた。太平洋の周辺の華僑への宣教に専念する修道士たちは、日本に戻るようにとの要請を受けると、その多くは帰り、日本で活動を続けた。無原罪聖母宣教女会、援助修道会、聖心会が挙げられる。
―聖スルピス会、フランシスコ会、ドミニコ会、クリスト・ロワ宣教修道女会は、すでに日本の地に足を踏み入れていた。彼らは日本とカナダとの間で宣戦布告がなされた結果として、強制収容所に入れられていた。そこで、戦後、これらの修道会にとってはゼロからの出発ではなく、以前の経験を基としての継続となった。ただ、二つの修道会が敵対感情から活動を断念させられた。一つは、鹿児島に1936年から1941年まで開かれていた聖アンナ会である。彼女たちはそこに幼稚園と商業女学校を設立していた。もう一つは、1931年から1940年まで鹿児島で聖明学園を経営していたイエズスとマリアの聖明会であるが、彼女たちはカナダに戻った。アメリカのその支部が仙台にやって来たが、今は一人が残って居るのみの様である。
―政治の面から見て、拡張主義でないケベック人は、貴重な「養魚池」を提供している。1946年から1970年まで、宣教師の数は4倍になっている。107名から405名になっているのである。忘れてならないのは、同じ時期に、キリストの「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」という教えに忠実に、ケベック人は南米、カリブ海諸国(特にハイチ)、アフリカに宣教師を送った。しかし、終戦から今日まで、ケベックの日本に徴集された宣教師たちは、カトリック宣教団のなかでの最大のグループであり続けている。
援助は霊的、経済的、そして教育的なものであった。当時、ローマやヨーロッパの修道会の金庫は空であった。ただ、カナダ・ドルは日本円の5倍の価値があり、その事によって、宣教師たちの派遣とともに多くの教会、司祭館、幼稚園、学校(控えめに数えても56校)、病院、養老院を極めて有利な経費で建てる事ができた。結局のところ、この宣教師たちの参加は、ケベックの600万のカトリック信者を代表し、キリスト教の歴史でかつてないほどの大きな努力を払った。
もちろん、この努力には辛い経験も伴っていた。彼らの言語とはまったくつながりのない言語を習得しなければならないという困難の前で、気力を無くし、口も利けず、耳も聞こえない生活を強いられるよりはと、飛行機に乗って戻る事を選んでいった者も多い。また、外国の宗教に対する日本人の関心の薄さは、十字架の苦しみであった。戦後間もない頃の小さな改宗ブームの後は、改宗者の数は、カトリックの両親のもとに生まれた子供の受洗者数も含め、一万人を越えなかった。これは韓国の一カトリック教会の洗礼者数に匹敵する。教会に人を引き付けるためにどうしたら良いのか分からず、英語やフランス語の会話クラス、音楽や裁縫のクラス、キリスト教徒でない人々への結婚準備クラス、子供たちをカトリックの学校に通わせている両親たちの集まりなどを催していた。聖トマス・アクィナスの日本語翻訳のうちに、知識層をキリスト教に引き付ける王道を見たと思った宣教師もいた。万策つきて、一時小教区の自分の部屋で、ファッションショーを企画したケベックの宣教師もいるという。洗礼を授けるのに誰かに手を支えてもらわなければならなかったと言われているフランシスコ・ザビエルの場合とは違って、奇跡は日本の地では起きなかった。
修道会から出て行った者たちの数は、どれほどであったのであろうか。当然の事だが、手元に資料はない。しかし、ケベックから来た宣教師の30%以上が、一般信徒に戻る許可を求め、そして得ていたという事は、誇張ではないと思われる。彼らは日本人女性と結婚し、改めて仕事に就いたりした。例えば、英語やフランス語の教育関係、また日本とケベックの組織団体関係などである。
派遣された宣教師たちのなかには、しっかりとした宗教教育を受けた者、神学をはじめ一般の学問、教育、看護、英語指導などに精通している者もいた。また、すでに日本語の基礎をある程度身につけている者もいるにはいたが、日本の古い、権威に満ちた、独特の文明を乗り越えて行くために必要な文化的な幅には欠けていた。大部分がケベックの片田舎の質素な家庭の出であり、列島の異教文化や、国家主義で極端に自らに閉じこもった文化を乗り越える備えが十分とは言えない場合もあった。宣教師たちは、確かに心も博く使徒にふさわしいのだが、必ずしもこのような文化を平静に受けとめられるとは限らなかった。この厳しい壁は、自らを見つめ直し、自分たちの霊的そして人間的価値の体系を見直させた。百合の花は、日本という腐植土になりきっていない土ではなかなか育ちにくかった。祖国では通用している宣教手段も、日の昇る国では困難に遭遇し、失敗も度々あった。
デカルト的合理主義者、論理的思考者のなかには、アジアの人々の曖昧な約束、はっきりしない態度などに耐えられない者もいた。この辛い試練はしばしばの事であった。しかし、日本は古来の価値観とキリスト教の伝統のあいだの融合を図るために、日本の聖パトリック、聖オーガスチン、聖キュリロスと聖メトディオスをずっと待ち続けていた。アイルランド、ローマ帝国、スラブ民族のあいだでは、キリスト教が文明と信仰を同時に媒介伝達したのに対して、この国では事はそのようには運ばなかった。ジャガイモや豚肉料理やミートパイやメープルシロップに慣れ切っていたケベック出身の宣教師たちが、日に三回の米や魚料理、また醤油に慣れるとは限らなかった。食堂を二つに分けるシステムにこだわったケベックの修道会の存在も知られている。一つは地元のシスターたち用で、もう一つはケベックのシスターたち用であった。畳に寝なければならないのか。箸で食べなければならないのか。あちらでもこちらでもお辞儀をすることになるのか。17世紀の中国の宣教師たちも同じような問題に遭遇していた。中国高官の絹の衣服を着れるのか、それとも一般中国人の綿の衣服なのか、といった懸念であった。
終わりに、次のことを付言しておく。排他的宣教を目的とした昔の修道会とはもちろん違い、パリ外国宣教会の神父やアフリカのホワイトファーザーのように、ケベックの修道会の多くはカナダ先住民やカナダ・エスキモーの地、またアメリカ合衆国内の地を宣教し開拓したが、その多くは北米大陸から出ることはなかった。修道会の規則も、試練の伝統も、積年の経験も、列島では彼らを支える役には立たなかった。
***
結局のところ、ケベックは日本に一国が他の国になしえる最上の贈り物をした。ケベックは、日本に対し、16、17世紀に霊的基盤の上に新しいフランスを建設するべく、大々的に男たちを、女たちを、また聖人たちをも、ケベックに送り込んだフランスに倣った。正確な数字を挙げる事も、決定的な結論を引き出す事も難しいが、間違いなく言える事は、これらの霊的・知的支援は、日本がその運命を切り開く助けとなった事である。たとえこの援助が受洗者の数に反映されていないにしても、である。聖パウロの教えを忘れてはならない。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださるのは神です。」
* Chercheur eu études québécoises et japonaises
** Emeritus
member of Institute of American and Canadian Studies, Sophia University, Tokyo,
Japan.
[1] ここに収められた内容の一部は、すでに筆者の一人リシャール・ルクレールにより、“Des Lys à l’ombre du mont
Fuji: Histoire de la presence française au Japon” との題でフランス語で発表されている。See Richard Leslerc, Des Lys à l’ombre du mont Fuji: Histoire
de la presence française au Japon (Sillery: Editions du Bois-de-Coulogne,
1995).
[2] 1946年12月14日付カナダの教皇代理人による修道会管区庁宛ての手紙:dans Adrien Bouffoard, «Chronique Missionnaire»Bulletin
de I’
Union Missionnaire du Clergé (Juin 1948) 9(6): 280-281.
[3] カナダ外務省『1946年カナダ外事関係関連資料』(Ottawa: Ministère des
Approvisionnements et Services, 1977)
Document
210: Dépêche 261 adressée à Ray Atherton, Ambassadeur des États-Unis par le
secretaire d’État aux Affaires extéricure, 6 mars 1946.
[4] Sylvgjgestre Juergens, «Aperçus»Bulletin de I’Union Missionnaire du Clergé (Janvier-Mars l949) 10(1):5.
[5] Secrétariat du Comité Missionnaire, Ville-Marie Missionnaire: 1642-1942 (Montréal: Secrétariat du Comité Missionnaire, 1943), p.276.
[6] Conférenc e des Évêques Catholiques du Japon, Cathopedia ’92 (Tokyo: Conférence des évêques catholiques du Japon, 1992), p.453
[7] Ibld., p.454.
[8] Urbain-Marie Cloutier, Propos japonais (Imprimerie franciscaine missionnaire , l922), p.208.
[9] Robert Deschênes, «Japon» Entre Frères, (1994): 16.
[10] Union Missionnaire du Clergé, La Semaine Missionnaire de Montréal (Montréa1: Editions Beauchemin, 1930), p.245.
[11] lnstituts Missionnaires Canadiens, La Semaine. Missionnaires de Joliette―4 au 10 Juillet 1927
(Québec: Imprimerie Charrier & Dugal, 1927),p. 200.
[12] Ibid., p.201
[13] Bernald Arens, Manuel des missions catholiques (Louvain: Édilions du Museum Lessianum, 1925), p. 119.
[14] [S.N.] «Le développement de l’enseignement catholicue au Japon» Buletin de l'Union Missonnaire du Clergé (Juillet 1932) 2(10): 317.
[15] Monique Cloulier,«Le paradoxe de l’école de mission) Le Précurseur (Mai-Juin 1990) 35(15): 467.
[16] Albert Tassé, Les Frères de l’Instruction Chrétienne au Japon: Une epopee mennaisienne, (Saint-Romuald: Les Éditions Etchemin, 1986), p.117.
[17] Frère Alban, Histoire de l’'Institut des Écoles Chrétiennes: Hors de France (1700-1966), (Rome: Éditions generals F.S.C., 1970), p.500.
[18] Jean-Guy Desforges, «Les écoles d’administration n’existent Pas au Japon» Le Devoir économique (Novembre 1985) 1(3): 40.
[19] Alcide Laplante, «Deux pages d’histoire sulpicienne au Japon» Messages (Printemps l973) 22(1): 75.
[20] Vincent-Marie Pouliot, «À l’Université impériale de Kyoto» Bulletin de l’Union Missionnaire du Clergé (Septembre l948) 9(7): 35l.
[21] Heriette Cantin, Allez, enseignez toutes les nations (Nicolet: Éditions S.A.S.V., 1984), p.130.
[22] Hideo Inohara, «La J. O. C. au Japon» Messages de I’Union Missionnaire du Clergé Octobre-Décembre 1957) 14(4): 174.
[23] ルミウ司教は結果的にオタワの大司教になった。
付録1 ケベック人によって設立された私立幼稚園、学校
|
設立修道会 |
幼稚園・学校 |
所在地 |
|
聖母被昇天修道会 |
明の星学園幼稚園 |
青森・埼玉 |
|
|
明の星学園中・高等学校 |
青森・埼玉 |
|
|
明の星女子短期大学 |
青森・埼玉 |
|
無原罪聖母宣教女会 |
聖母学園幼稚園 |
東京 |
|
|
会津若松幼稚園 |
福島 |
|
|
郡山幼稚園 |
福島 |
|
|
会津若松小学校 |
福島 |
|
|
郡山小学校 |
福島 |
|
|
会津若松中・高等学校 |
福島 |
|
|
郡山中学校 |
福島 |
|
ケベック・カリタス修道女会 |
カリタス幼稚園 |
神奈川 |
|
|
カリタス小学校 |
神奈川 |
|
|
カリタス学園中・高等学校 |
神奈川 |
|
|
カリタス女子短期大学 |
神奈川 |
|
コングレガシオン・ド・ノートルダム |
桜の聖母幼稚園 |
福島 |
|
|
マルガリタ幼稚園 |
東京 |
|
|
桜の聖母小学校 |
福島 |
|
|
明治学園小学校 |
福岡 |
|
|
桜の聖母中・高等学校 |
福島 |
|
|
明治学園中・高等学校 |
福岡 |
|
|
桜の聖母短期大学 |
福島 |
|
聖母奉献修道会 |
賢明幼稚園 |
大阪 |
|
|
賢明小学校 |
大阪 |
|
|
賢明学院中・高等学校 |
大阪・兵庫 |
|
|
賢明女子短期大学 |
兵庫 |
|
聖ウルスラ修道会 |
聖ウルスラ学院幼稚園 |
青森・宮城 |
|
|
聖ウルスラ学院小学校 |
青森・宮城 |
|
|
聖ウルスラ学院中・高等学校 |
宮城 |
|
|
聖ウルスラ学院高等学校 |
青森 |
|
|
聖ウルスラ学園短大 |
宮城 |
|
聖ヴィアトール会 |
洛星中・高等学校 |
京都 |
|
聖スルピス会 |
サン・スルピス大神学院 |
福岡 |
|
レデンプトール会 |
レデンプトール小神学院 |
長崎 |
|
ラ・サール会 |
ラ・サール高等学校 |
北海道 |
|
|
ラ・サール中・高等学校 |
鹿児島 |
|
キリスト教教育修士会 |
さゆり幼稚園 |
神奈川 |
|
|
セントメアリー |
東京 |
|
|
聖光学院中・高等学校 |
神奈川・静岡 |
出所:小林順子「ケベック州の教育」(東進堂、1994)134-135ページ。
付録2 在日ケベック人
|
年 |
修道女 |
神父 |
修道士 |
信徒 |
計 |
|
1898 |
1 |
|
|
|
1 |
|
1899 |
1 |
|
|
|
1 |
|
1900 |
1 |
|
|
|
1 |
|
1901 |
1 |
|
|
|
1 |
|
1902 |
2 |
|
|
|
2 |
|
1903 |
2 |
|
|
|
2 |
|
1904 |
3 |
|
|
|
3 |
|
1905 |
7 |
|
|
|
7 |
|
1906 |
7 |
|
|
|
7 |
|
1907 |
7 |
2 |
1 |
|
10 |
|
1908 |
7 |
3 |
1 |
|
11 |
|
1909 |
7 |
3 |
1 |
|
11 |
|
1910 |
7 |
5 |
1 |
|
13 |
|
1911 |
7 |
5 |
1 |
|
13 |
|
1912 |
7 |
5 |
1 |
|
13 |
|
1913 |
7 |
4 |
1 |
|
12 |
|
1914 |
7 |
4 |
1 |
|
12 |
|
1915 |
7 |
2 |
|
|
9 |
|
1916 |
7 |
2 |
|
|
9 |
|
1917 |
7 |
2 |
|
|
9 |
|
1918 |
8 |
2 |
|
|
10 |
|
1919 |
8 |
2 |
|
|
10 |
|
1920 |
9 |
3 |
|
|
12 |
|
1921 |
9 |
3 |
|
|
12 |
|
1922 |
9 |
4 |
1 |
|
14 |
|
1923 |
9 |
9 |
4 |
|
22 |
|
1924 |
10 |
9 |
4 |
|
23 |
|
1925 |
10 |
11 |
4 |
|
25 |
|
1926 |
13 |
10 |
3 |
|
26 |
|
1927 |
17 |
11 |
2 |
|
30 |
|
1928 |
21 |
22 |
2 |
|
45 |
|
1929 |
22 |
26 |
2 |
|
50 |
|
1930 |
25 |
29 |
2 |
|
56 |
|
1931 |
31 |
34 |
4 |
|
69 |
|
1932 |
41 |
37 |
10 |
|
88 |
|
1933 |
54 |
46 |
10 |
|
110 |
|
1934 |
63 |
47 |
10 |
|
120 |
|
1935 |
71 |
49 |
10 |
|
130 |
|
1936 |
80 |
51 |
6 |
|
140 |
|
1937 |
89 |
52 |
6 |
|
150 |
|
1938 |
96 |
52 |
11 |
|
159 |
|
1939 |
100 |
56 |
13 |
|
169 |
|
1940 |
99 |
52 |
13 |
|
164 |
|
1941 |
87 |
46 |
11 |
|
144 |
|
1942 |
87 |
46 |
16 |
|
149 |
|
1943 |
83 |
41 |
16 |
|
140 |
|
1944 |
57 |
37 |
13 |
|
107 |
|
1945 |
55 |
37 |
13 |
|
105 |
|
1946 |
72 |
36 |
9 |
|
117 |
|
1947 |
83 |
36 |
12 |
|
131 |
|
1948 |
112 |
49 |
17 |
|
178 |
|
1949 |
128 |
60 |
19 |
|
207 |
|
1950 |
145 |
75 |
24 |
|
244 |
|
1951 |
165 |
82 |
28 |
|
275 |
|
1952 |
176 |
93 |
34 |
|
303 |
|
1953 |
179 |
99 |
38 |
|
316 |
|
1954 |
184 |
108 |
43 |
|
335 |
|
1955 |
185 |
112 |
45 |
|
342 |
|
1956 |
192 |
115 |
46 |
|
353 |
|
1957 |
191 |
119 |
47 |
|
357 |
|
1958 |
191 |
116 |
50 |
|
357 |
|
1959 |
186 |
119 |
53 |
|
358 |
|
1960 |
191 |
121 |
55 |
|
367 |
|
1961 |
205 |
123 |
59 |
|
387 |
|
1962 |
210 |
127 |
57 |
|
394 |
|
1963 |
215 |
124 |
56 |
|
395 |
|
1964 |
214 |
122 |
54 |
|
390 |
|
1965 |
211 |
122 |
56 |
|
389 |
|
1966 |
209 |
121 |
61 |
|
391 |
|
1967 |
208 |
118 |
61 |
|
387 |
|
1968 |
208 |
112 |
60 |
|
380 |
|
1969 |
195 |
111 |
54 |
|
360 |
|
1970 |
189 |
116 |
55 |
45 |
405 |
|
1971 |
186 |
113 |
56 |
43 |
398 |
|
1972 |
178 |
114 |
54 |
44 |
390 |
|
1973 |
175 |
113 |
52 |
44 |
384 |
|
1974 |
166 |
111 |
54 |
43 |
375 |
|
1975 |
158 |
107 |
55 |
42 |
362 |
|
1976 |
150 |
105 |
57 |
42 |
354 |
|
1977 |
144 |
102 |
57 |
44 |
347 |
|
1978 |
134 |
96 |
51 |
46 |
327 |
|
1979 |
158 |
92 |
49 |
47 |
316 |
|
1980 |
132 |
91 |
47 |
46 |
316 |
|
1981 |
126 |
84 |
47 |
47 |
304 |
|
1982 |
118 |
83 |
45 |
51 |
297 |
|
1983 |
114 |
81 |
43 |
54 |
292 |
|
1984 |
108 |
81 |
43 |
62 |
294 |
|
1985 |
106 |
81 |
41 |
66 |
294 |
|
1986 |
96 |
81 |
41 |
73 |
291 |
|
1987 |
92 |
81 |
40 |
81 |
294 |
|
1988 |
84 |
81 |
40 |
96 |
301 |
|
1989 |
79 |
78 |
36 |
114 |
307 |
|
1990 |
77 |
74 |
30 |
134 |
315 |
|
1991 |
74 |
72 |
30 |
162 |
338 |
|
1992 |
72 |
71 |
29 |
168 |
340 |
出所:修道会の資料及び著者の推定