Footsteps of the Quebec Missionaries in Japan
( 日本におけるケベック宣教団の足跡)
Richard Leclerc*
and Claude Roberge**
SUMMARY: The
year 1998 marks the hundredth anniversary of the coming to Japan of the first
Quebec missionary: Hé1ène Paradis, Sister Marie Beata, arrived at Kumamoto on
October 19, 1898. She was 24 years old when she arrived and stayed continuously
in Japan for 62 years until her death in 1960. She was a Franciscan Missionary
of Mary, and with three other sisters she founded the Biwasaki Tairo Hospital
for lepers. She was also the first superior of a home for old ladies near Seibo
Byoin Hospital, Tokyo (both of which still in existence). During this century,
Sister Beata was followed by hundreds and hundreds of Quebec missionaries.
Their contribution to Japanese social, educational and spiritual welfare was
outstanding from many viewpoints. Since the end of the Second World War, they formed
the largest Catholic missionary group. After presenting the life of Sister
Beata and giving statistics about her followers' activities, the authors go on
to make a preliminary social assessment of the prodigious efforts made by these
missionaries. Although a more thorough study should eventually be done, we can
conclude that in spite of the particularly difficult circumstances of their
lives, these sons and daughters of Quebec made a great impact on the Catholic
Church of Japan, and, by way of feedback, on their native Quebec as well.
1998年にケベック・カトリック宣教100周年が祝われようとしている。
ここに、日本の読者諸兄に、一世紀という長い期間に渡る素晴らしい宣教を紹介することは、時宜にかなっているであろう。
紙面に制約もあり、資料も膨大であることから、戦後の時期、つまり1946年から1996年までの期間に限定して述べてみたい。[1]
占領
第二次世界大戦の終焉とともに、日本の福音化の沸き立つような時期が始まった。かつてカトリックは、これほど好条件に恵まれたことはない。アジアのなかの日本列島は、ローマ教皇庁の特別な配慮により、フランス系カナダ人修道士(女)を最も多く受け入れた宣教の地である。
この苦悩の時期に教会は精神的オアシスとなり、その後日本人は教会の伝える平和のメッセージにますます関心を向けていった。教会の存在がいたるところで見られるようになり、多くの人々が辛い過去を埋め去る信仰の力に注意を払うようになっていた。この状況は、短期間で多数の改宗者を生み、また宣教活動の大きな飛躍を果たすのに、極めて好都合であった。
日本のカトリックにとって喜ばしい日々を迎え、教会内では、信者の驚くべき増加が期待された。しかし、そのような状況は、宗教が苦悩の時期に束の間の逃れ場となっているだけでは、生まれるものではない。歴史は、日本人が自信を回復した時には、教会の霊的支えが、再建途上国家の勃興の願いに合致した教育面での寄与ほどには、必要とされなくなった事を示している。
天皇がもはや神とみなされず、神道が国家信条とされなくなった国においては、秩序を失った国家よりも、聖職者が多くの問題を受けとめた。言うまでもなく、新しい権力やアメリカ政府は、悲惨さを取り除く修道士(女)たちの援助を歓迎していた。その時期にローマ教皇庁の呼び掛けによって、フランス系カナダ人たちは、廃墟と化した国に手を貸す冒険に旅立ったのである。
私は、「日本へまだ宣教師を派遣していない修道会の会員が、宣教にとってこれまでになく好い状況下にあるこの帝国に赴かれるように」との切なる教皇様の願いを皆様に伝えるようバチカンから託されています。特別に、教皇様の貴宣教団へのこの差迫った呼び掛けをお伝えし、私は皆様に深いご配慮をもってご検討下さるようお願いいたします。国が荒廃するという大惨事の後に、救いの道を求めている人々に、尊いキリスト贖罪を述べ伝えるため皆様のご協力を求めているのは、イエス・キリストの代理であられる教皇様であります。[2]
軍国主義の排除を意図するアメリカは、日本の社会に平和をもたらすものとして、またその西洋化に貢献するものとして、宣教師たちの来日を支援していた。教会の活動を制限する法的障害は取り払われ、戦争の間接収されていた修道院なども元の所有者に戻された。
カナダの国益を守るために、また日本との再開された外交を確実なものとするために、カナダ外務省によって東京に連絡本部が置かれた。この支援は59名のカナダ宣教師と、戦争の間も日本に滞在していた2人の一般人に大きな喜びをもって受け入れられた。[3] カナダは、日本政府に対して、帝国政府によって接収された不動産を教会に戻すように働き掛けた。その結果、戦争のあいだに損害を受けたり壊されたりした建物の補修のために賠償金を得ることができた。
自由の風が吹いているにもかかわらず、生活は快適というにはほど遠かった。数年の軍事行動とアメリカ軍の空襲によって、日本の生活基盤は灰燼に帰していた。食物、衣服、燃料の欠乏と銀行を通じての外国送金の規制が、弱い人々の生存に追い打ちをかけていた。こうした不安定な状況にもかかわらず、政治的また技術的変化によって、細々ながらも苦しんでいる人々に力を貸す宣教師たちの入国に弾みが付けられた。
航空の進歩によってカナダと日本のあいだの商業的航空路のサービスが始まり、これにより太平洋を挟んだ行き来が容易になった。数時間でカナデイアン・パシフィックのダグラスDC4型機は、昔の商船が一月かかった旅を終わらせてしまう。技術面での必要から何カ所か経由した長時間の飛行の後、見渡すかぎりの水田、景色の単調さを破る小さな村々が、思いがけず現われるのであった。その美しさが、列島を息苦しくさせている現実の悲しみから逃れさせてくれた。
東京の羽田空港の滑走路に最初の一歩を降ろすや、到着した者は、この国の運命を握っているアメリカ占領軍の現存をその目で確かめることとなる。生活条件は、旧軍隊の影響のかげはなく、発達途上国のそれに類似していた。不衛生と食物の欠乏によって病気が蔓延し、これが国内の組織の混乱にさらに困難を増し加えていた。
羽田から東京まではアメリカ軍によって回復された広い道路を通って20キロほどであり、燃えた建物の工業地帯を通過する。荒廃した風景である。•••昨年私が称賛したチュニスの遊牧民の原始的な小屋にも似たバラックが、道路や東京湾に汚物を流す腐った河に沿って、我々の眼前にまるで茸のように建っている。多くの人々が辛そうに道路を歩いている。なかには幼児をパプア人のように背負い、身体の前に何とも形容しようもない小さな車を独り押している人もいる。皆ぼろ着をまとっている。このような不潔さや、どうにもならない生活条件を目にすると、何故陸軍の将校たちがパスポートの他に、天然痘やチフスやコレラなどの予防接種の書類等を調べるのかが理解できる。[4]
宗教的とも言える愛国心に幻滅していた国において、カトリック教会のメッセージは、思いがけず出現した新しい社会の協和や意気込みと両立しているように思われた。キリスト教徒の熱意が勝利を収めたと見るや、戦時中に本国に送還されていた宣教師たちの大半が、中断させられていた仕事を継続するために列島に戻って来た。日本の人々や自分たちの仕事に対して抱いていた彼らの深い愛情が、それまで山積みされていた困難を押し退けていった。
ローマ教皇の呼び掛けに、11のフランス系カナダ人修道士(女)の宣教団が1947年と1960年の間に日本に根を降ろした。過去の経験に支えられて、神の「働き人」の重点は教育、社会事業、教会が日本の社会に根づくための教区での働きに向けられた。
布教活動の柱である修道女が多数、司祭たちの前途有望な仕事を支えるために上陸する。聖クララ会(1947)、厳律至聖贖罪主女子修道会(1950)、1es Petites Filles de Saint-Joseph(1951)の活動が宣言され、修道女たちが希望に満ちて到着する。聖母奉献修道女会(1948)、ケベック・カリタス修道会(1953)は、カトリックの学校組織の再建に、彼女らの教育知識を提供するために招かれた。天使の聖母宣教修道女会(1949)とオタワ愛徳修道女会(1960)の修道女たちは、社会事業に力を注いだ。
男性宣教師団の日の昇る国での定着は、数の上ではそれほどでもない。しかし、新たにやって来る宣教師たちは、ケベックの送り出す最もダイナミックなグループから派遣されて来た。1948年に聖ヴィアトール会、レデンプトール会、ケベック外国宣教会が宣教の基礎を築いた。3年後、キリスト教教育修士会が関東地方に到着した。
福音宣教か文化移入か
人々への福音宣教が派遣の主な動機ではあるが、この目標は文化面の事柄が理由で実りがなかった。カトリック信仰が、天皇を創造主の正統な継承者とする伝説の信じられている土地に根を降ろすのは難しかった。人々は自分たちの先祖を誇り、大半の人々は、唯一の神を崇めるという、この国の歴史とは無関係な礼拝を行なうことに違和感を抱いていた。このような状況下でカトリックの小さな共同体の存在は、相変わらず不安定であった。17世紀と同様に、20世紀においてもナショナリズムが極端に高揚すると、国はカトリック市民を帝国の権力に不誠実と見る。過去に見られるのと同様に、カトリック教徒は、集団のなかで異質の者が異邦人とみなされる画一的社会において信仰を隠すようになっていた。
…進展ははかばかしくなかった。神仏に跪く日本の老人たちは、現代的な教育やものの考え方に触れておらず、なかなか神々や仏から離れられない。ほんの僅かな人々が改宗したのみだった。老人たちにとって、キリスト者になるということは、日本人であることを止めることであった。現代の若い日本人の姿勢は変化し、より複雑となってきている。彼らは一般的に教育を受けており、なかには非常に高い教育を受けている者もいる。この点を念頭にいれて、宣教努力が積み重ねられていった。しかし、彼らにとって、来世のことを考える妨げや障害は、仕事への支障や生活への気掛かりであった。[5]
これらの歴史的な事情と、厳しい告解に縛られるとの人々の恐れが、カトリック信仰の布教を難しくしていた。平均的な日本人の生活の現実において、カトリックの規律は、物質的満足が支配的な社会においては守るに難しい。死の直前に、失うものも無くなった時に、洗礼の秘跡を受けるといった傾向がある。
数世紀をかけても、教会はせいぜい1パーセントの日本人に洗礼を授けたに過ぎなかった。1991年には431,633人の日本人がカトリックになっているが、1億2干3百万の人口の0.004パーセントである。[6] 西洋の精神的伝統と東洋の精神的伝統の一致の難しい社会では、カトリックが周辺的存在となってしまっていることは疑いない。この現実は悲観的に捉えられるかもしれないが、宣教師の貢献に心動かされた人々が、たとえ洗礼は受けていなくとも教会のもたらすメッセージに好意を表している点を差し引いて見ていかなければならない。
宣教団の教育と社会事業は、日本の様々な世代に著しい影響を与えている。外国との交流が長らく制限されていたこの国では、カトリックの学校は社会環境を整え個人的にも、また集団的にも豊かさを増し加えていける、社会環境を整える唯一の道であった。第二次世界大戦の後に、国際舞台で自らのアイデンティティーを求めようとする国においては、まさに唯一の道だったのである。
ローマ教皇庁にとって、補助事業は目標ではなく、異教徒を福音に触れさせる手段であったわけであるが、日本人は教会の資力を信仰生活よりむしろ物質生活を豊かにするために利用している。この逸脱は1960年半ばから増大した。急激な経済成長は、その結果として信仰の支えをあまり必要としなくなった国に、自信を回復させた。親たちにカトリックの私立学校を選択させていたのは、キリスト教の良いところを自分たちの子供に学ばせたいという願いより、良い教育を施したいとの配慮によるものだった。それらの学校で、キリスト者の生徒は1パーセントにも満たない。
宣教の場としての教会が、少数のカトリック信者の霊的幸福のみにしか影響をもたらさないという現実は、なんら驚くに当たらない。群れの外では、教会は男性の目に届くものではなかった。この父系社会にあっては、カトリック信仰は女性に浸透していて、信者の60パーセントが女性である。[7] しばしば、カトリックの真の思いや願いに関心の薄い人々の集まりにおいては、カトリックは単に日々の欲求不満を解消する手段となってしまった。
たとえ宣教師が多くの人々に訴えかけても、彼らの活動は結果として大都会の上流階級に影響を及ぼしたに過ぎない。この現象は教会がその力を安定させるために、エリートからの支援を受けようとしていた事を考えれば、偶然の結果とは言えない。修道士の来日以来、上流階級の人々をカトリック宣教の基盤とせざるをえなかったことによるであろう。この階級を仲立ちとして、教会はその有力者たちに輝かしい日々の到来の望をかけていた。
規律的にも、また管理的にも指導者階級はあくまでも神道である。この宗教は実のところ他の宗教を排した国教である。そこでカトリックは、この指導者階級の目を開かせることに成功しない限り、この国ではほとんど改宗者はのぞめない。[8]
ミッション・スクールに通うことで、次世代の指導者たちは、一流大学に進む準備をしながら第二外国語を学ぶことが可能になっていった。このグループは、カトリックの教義を霊的に不可解なものとして受け取っているにもかかわらず、それほど豊かではない彼らの同胞とは異なって、カトリックの日本の社会への貢献を目の当りに見ていった。宣教手段は、東洋の宗教では無視されていた心理的な必要を満たしつつ、世界に開く知的窓となっていった。宣教師たちが改宗を促す道具としてそれらの事業を利用しているのに対して、日本人の多くは宣教師団から知識と世俗の幸福を汲み上げるに留まり、キリスト教信仰に至る者の人数は僅かであった。
ただ、教育の分野で働いた宣教師たちは、日本の社会との関わり合いを拡げるのに成功した。収穫は、経済界への影響を無視できない学校において豊かであった。今日、経済界の上層部の人々、政治家、知識人たちはカトリックの学校で高い質の教育を受けたことを誇っている。ほとんどの修道士は、宣教が献身の聖い動機となっているのだが、環境によっては霊的生活から逸脱する者も出てきた。補助事業は、使徒召命を犠牲にしてしまっていたりもした。第二次世界大戦後の贅沢な宗教建築は、力を取り戻して豊かな実を誇示する日本の社会の風潮に聖職者が呑まれていることを示している。この動きは、物質主義価値観対する最初に来日した宣教師たちの超然とした生き方を崩すものであった。
経済的発展によって、修道士のなかには、物質的豊かさによって彼らの活動が正当化されなくなった社会のなかで、自分たちの役割の有用性を自らに問うような者も出てきた。日本人を信仰に導くために来ていながら、今日その目的が、列島の人々の関心事の前に薄れてしまったかのように見えなくもない。しかし、今や福音化はその予備段階の補助的事業を通過した。このキリストの精神の種を蒔くための準備的アプローチはさらに控えられて行くが、基盤は固まって来ており、そこからカトリックに対して門戸の開かれた社会が花開いていくであろう。
・・・たとえ一般の生徒が学校の基本方針や特に宗教行事に大きな関心を示さないにしても、愛を人々に与えられる「紳士」に、また困っている兄弟を救うために献身と犠牲の思いを発揮できる「紳士」になるよう彼らに求めることは、生徒たちに大きな影響を及ぼすであろう。[9]
職務を通じて、宣教師たちはキリストの価値である愛徳を広めたが、彼らは日常生活に、受け入れ社会における上流階級の外面を取り込んで行くことになった。日本で長年生活した修道士は、ケベックに戻るのが困難になってさている。「静かな改革」前にケベックを離れた修道士は特にそうである。たとえ彼らが自分たちを常にフランス系カナダ人と考えていても、また時として日本文化の欠点に批判的であっても、日本は彼らの心の中でいとしい第二の母国となっている。彼らは、ほんの短い期間ケベックに滞在することで母国とのつながりを保ち、極めて貴重なキリストの遺産を与えられた母国社会の変革を時折に知るのみである。
修道会の活動
「高い鼻の人」に対して用心深い人々の心をほぐすために採られた戦略は、教育的また社会的活動によって励ましを与えることである。この仕事は困難であるが、教区の仕事が果たし得なかった日本人家族とのつながりを築くことがでさる。そこで、各小教区に、幼少の頃からキリストの価値を教え込む幼稚園が、少なくとも一つあるというのも別段驚くに当たらない。
時として修道士(女)の仕事は、宣教の伝統的な手法とはかけ離れていると思われるような形をとる。表面上はそうであっても、彼らは日本人に外の世界に開かれた窓を与えることで、キリストの愛の共有と価値を広めている。医療の世話が求められている僻地において、20世紀初め、無料診療所の開設が人々に喜びをもたらし、福音宣教のための究極の道となっていった。
どのような事業も、無料診療ほど親しいかたちで、また好意的に受け入れられるかたちで未信者とのつながりを持つことは出来ない。実際、身体の具合を診ることで心に触れることができ、そこに然るべき時に実を結ぶ福音の種を播くことができる。[10]
鹿児島県でフランシスコ会と無原罪聖母宣教女会が、人数はそれほどではないが、カトリック信仰を広めるために諸々の活動を組織している。その幅広いプログラムの基碇は、その地区に散っている小さな宣教拠点への訪問である。この定期的な巡回で司祭やシスターは、何百キロメートルも奔走する。また受け入れ姿勢のまったくない地区にも行き、魂の救いのために働くこともしばしばであった。その労苦は彼らの宣教の決意を強めていった。
カトリック信者に村する導きの継続を安定させるために、司祭は信者の中から採用された要理教師たちの手助けを受けていた。彼らの使命は、司祭のいない時にも霊的生活を生き生きと守られるようにすることである。このような仲介者の助けが望ましいことは明らかである。外国人にとって日本人とのコミュニケーションは、日本に長年住んでいても難しい。信者の集団が大きくなってくると、教会が小教区の住民の大多数に近い場所に新たに建てられた。主任司祭と町なかのカトリック教会堂の存在は、たとえそれが慎ましいものであろうとも、みすぼらしいものであろうとも、信仰をもたない者を教会に導く強い力となる。[11]
ケベックにおけるのと同様に、種々の布教支援活動が宣教師たちの働きを支えた。それらの活動のなかで最も重要なものは、司祭やシスターの後継者を育てることをも考え合わせつつ、信仰を若い世代やその家族の中に広める学校であった。1920年代名瀬市(鹿児島)において無原罪聖母宣教女会が女子校を一つ管理した。市の要請で修道女たちに譲渡された敷地に建設され、多くの希望が学校のなかに漲った。
私たちはこの学校から良い結果の出るのを待っています。若い娘たちが、少なくとも4年間、宣教師や修道女に囲まれて過ごすのです。カトリックの教義や生活について自らの目で見て身につけた正確な観念は、彼女たちが教え込まれかねない先入観や誤りを防ぐ知識となることでしょう。そして次に、彼女たちが家族に、また多くの子供たちに素晴らしい影響を与えていくことでしょう。と言うのは、私たちの生徒の多くが教師になるからです。[12]
ケベック人が、日本の人々との堅い絆を結ぶことに成功した分野は、間違いなく自治体への奉仕の分野である。他の宗教と比較しても、教会は魅力的でなければならない。
礼拝式のような典礼に関する活動は多くの人を引さ付けず、むしろ補足的な企画が疑いのない成功をもたらした。それは教育や文化の分野であっても、社会活動や宗教活動の分野であっても、その控えめで熱心な貢献は、日本の社会の進歩に協力することで喜ばれ認められた。この貢献は、宣教活動の先駆者たちを除いて、その膨大な貢献を評価できないケベック人から無視されている。多くの日本人の受けた満足と充足は、長い年月の後に一般市民や公の機関が示す尊重の念と共に、彼らの働きや存在の有用性を証明している。
シスターやブラザーは、司祭の背後で信仰の伝播の補助として働いているのであるが、彼らの信仰生活への貢献は、1898年に日本に遣わされた最初の宣教師であるシスター・エレーヌ・パラディの来日以来なされた仕事を見るならば、議論の余地のないほど明白である。彼女は1875年10月9日にケベックのシャルルスブルグで生まれ、1960年に日本の琵琶崎で亡くなっている。女子修道会の貢献はあれらの勇気ある女性たちがいなければ日本の教会の発展はおそらくなかった、と思われるほどに価値がある。ケベック出身のメンバーをかかえる31の修道会のうち、22の修道会が修道女たちによって創られている。
宣教においても、聖職者の位階の中でのように、女性は男性の権力に従属している。1976年の「静かな改革」までは、聖職者と政治権力は、宗教と家族の発展に尽くす役をフランス系カナダ人男性に付していた保守的な思想体系に寄り掛かっていた。
そのような状況下で、女性は先祖の信仰と言葉を子孫に守り伝える聖なる召命にあずかっていた。神に身を献げる決心をし、地上における自らの幸せを放擲した女性達は、キリスト者の霊的、知的、身体的幸せに気を配るのに相応しい者になっていった。彼女たちは司祭たちの欠かせない協働者であり、「冷淡な未信者の心に消しがたい印象を残し、固く閉ざされていた扉を開く」適性をもつ唯一の人々であった。[13] 女子修道会には権力というものは与えられていないが、女子修道会が宣教の地で手にしている自治は、一般の女性の羨望であった。
列島のなかでの存在理由でもある小教区の司祭職とは別に、修道士は時間の多くを補足的活動に割いている。信仰につながるそれらは、宣教の強力な手段となっている。宣教活動の各分野に割かれている時間がどれほどであるかを正確に知るのは難しいが、表1はおおよその数を示している。
宣教活動の半分以上が教育を通して為されていることが確認されるが、驚くに当たらない。観想修道会を除いて、すべての修道女会は能動的に関わっている。小教区やその関連の仕事は司祭や修道院の活動のかなりの部分を占めている。
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表1.日本在住ケベック人の関係するカトリック修道会部門別活動 |
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|
<男子修道会> |
計 |
教育 |
社会 |
文化 |
小教区 |
|
イエズス会 |
299 |
149 |
8 |
2 |
44 |
|
フランシスコ会 |
140 |
21 |
6 |
|
42 |
|
ドミニコ会 |
40 |
3 |
4 |
1 |
22 |
|
ラ・サール会 |
22 |
18 |
|
|
|
|
聖スルピス会 |
12 |
9 |
|
|
3 |
|
聖ヴィアトール会 |
20 |
7 |
|
|
11 |
|
レデンプトール会 |
32 |
|
|
|
21 |
|
ケベック外国宣教会 |
27 |
|
2 |
|
18 |
|
キリスト教教育修道会 |
22 |
20 |
|
|
|
|
<女子修道会> |
計 |
教育 |
社会 |
文化 |
小教区 |
|
幼きイエズス修道会 |
325 |
210 |
25 |
|
|
|
シャルトル聖パウロ修道女会 |
188 |
130 |
|
|
|
|
マリアの宣教者フランシスコ修道会 |
360 |
146 |
103 |
|
|
|
聖心会 |
160 |
120 |
3 |
|
|
|
無原罪聖母宣教女会 |
33 |
22 |
4 |
|
2 |
|
聖ドミニコ女子修道会 |
82 |
58 |
5 |
|
4 |
|
コングレガシオン・ド・ノートルダム |
85 |
71 |
|
|
|
|
クリスト・ロワ宣教修道女会 |
60 |
15 |
39 |
|
|
|
聖血礼拝修道女会 |
23 |
|
|
|
|
|
聖母被昇天修道会 |
45 |
30 |
|
|
|
|
援助修道会 |
85 |
10 |
31 |
|
8 |
|
善き牧者愛徳の聖母修道会 |
30 |
8 |
11 |
|
4 |
|
聖ウルスラ修道会 |
66 |
52 |
|||